Anything Goes (again) ...

Yahooブログから移りました

一体なにがもったいない?

ここのところ、マータイさんの「もったいない運動」について考えたりしている。

もちろん、マータイさんのいうところの「もったいない」自体には異をとなえるつもりもないのだけれど、そこから派生して「活動」になってしまっている「モッタイナイ」には違和感しか感じない。この違和感は一体どこからくるのだろうか、と。

一番の違和感は「もったいないという概念は極めて私的なものだ」という観念の欠落である。地球環境(環境に「やさしい」という鼻持ちならない表現に、すでにそのきらいはあったのだけれど)に「もったいない」を接続した際に「誰もが守るべき地球」と「もったいない」の間に意味不明なかけはしができてしまい、「誰もがもったいないと思うべき対象」という茫漠としたものに実体があたえられたかのような錯覚を大衆にもたらす、という実になんというか企業にとっては商売しやすい化け物が誕生した、と考えている。

「誰にとってももったいないこと」なんて実際にはそうそう存在しない。ある人にとって「もったいないもの」は他の人にとっては「絶対に欠かすことのできない大切なもの」だったりすることはざらだ。だから、個人個人が自分にとっての「もったいない」を自覚して生きていきましょう、という主張は「あり」だが、それを組織的に展開していく「もったいない運動」は詐欺だということだ。

たとえば、酒を飲まない人にとっては飲み会でお金をつかうのは「もったいない」ことだ。写真の趣味がない人にとって、カメラ機材にお金をかけるのは「もったいないこと」だし、装飾品に興味がない人にとってはブランドものなんか「もったいない」のきわみだろう。模型好きが日々のストレスを模型づくりで解消している姿は理解のない家族からみれば「もったいない」以外のなにものでもない。個人個人の生活と価値観がちがうからこそ、なにが「もったいない」のかは人間の数だけ異なっているのだ。また、価値観が一人一人異なっているからこそ「自分にとってのもったいない」を実践することで全地球環境的にはバランスのよい「持続性」に到達できるだろう、という発想はよく理解できるし、その壮大さはノーベル賞に確かに値しよう。レンタルで充分と思っている人にとっては映画館で映画見るのも、CD買うのも「もったいいない」ことだろうし、「みえないところも節約」したマンションを購入して資金を節約しようという「もったいない」もあるだろう。

でも、個人性を忘却した間違った「もったいない」を徹底すると経済活動の縮小や文化・社会の衰退につながるわけだし、その背後でぼろ儲けしてほくほくしている企業の存在を生み出したりもするかもしれない。

でも、いや、だからこそ、自治体や企業がそれに便乗して「活動」してしまうのは見苦しいし、それは本来の「もったいない活動」の対極にある愚行である。もともと、ニッポンジンというのは「なんだかよくわかんないけどいいことらしい」とか「なんだかよくわかんないけどこわいらしい」という曖昧模糊としたいいかげんなでっちあげに弱い。環境ホルモンさわぎだの、BSEさわぎだのもそうだし、最近では「メタボリック症候群」なんかもそうだ。その内容が間違っていればいるほど、騒ぎが大きくなり便乗する奴も増えるのではないかとすら思える。

そういう騒ぎに便乗して右往左往することが一番「もったいない」んじゃないですかね。

周囲の目や価値観にふりまわされて自己をきちんと主張できない未熟な自我のまま大人になってしまうとそういった世間の流れに埋没して浮き上がれなくなる。そのまま、墓場まで流されていくのは勝手だけれど、他人をまきこもうとするな、迷惑だから、と思ってしまうのは、たしかに自分がその流れからはみ出しているからかもしれないけれど、そんなことのせいで自分の好きなもの、大切なことから遠ざかるのは間違った「もったいなさ」だ、と僕は思う。

きちんと自我を確立させて生きていきましょうよ、そうしないとせっかくの脳髄が「もったいない」ですよ、てなはなしです。