Anything Goes (again) ...

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書くべきことがない

いや、「あるある」の話なんだけれども。
「納豆」のせいというよりも、話題になってしまったせいで花王がスポンサーを降りて、番組は終了。
その瞬間、選挙でまけたみたいにわらわらと「あれもあった」「これもあった」報道が続発している現状です。

でもね、あの番組を普通に見ていたら、ウソ臭いのは自明のことだし、随所のいいかげんなテロップをみていれば情報の検証をちゃんとしていないのは明白だし、いまさらなにを、という感じなのです。
逆に、「あるある」にとりあげられたイコールうさんくさい、という構図がきっちりと確立していたが故に、かえって胡散臭いモノを選別するフィルターとして優秀に機能してすらいた「あるある」。

#「あるあるにでてきたって? じゃあウソなんじゃない?」みたいなね(笑)

結局のところ、情報の取捨選択能力の乏しい視聴者は、なんでもいいから権威にすがりたくて、戦後の日本でケンイといえば「カガクってポイもの」だったというお話で、なんだ、またまた日の下に新しきものなしですか、と。

トイレットペーパーを買いあさったり、ココア買い占めたりする人たちが納豆も買うわけです。昔と違うのは、視聴者がすぐにまとはずれな文句をいうようになったこと。「たべたのにやせなかったじゃないか」なんていうのはどこのオトナのセリフなんだかなあ。テレビのまねっこした時点で満足しなさいよ。

ともあれ、ウソとホントを見分ける目をやしなうのも科学です。だから、戦後の日本でもっとも手薄な教育はなにかというとたぶん「科学」であることはたしかでしょう。まあ、そうでなければすぴりちゅあるな人が豪邸に住むことはできないわけです。

でも、この騒動で一番ショックなことは、騒いでいる彼らは楽しんでだまされていたのではなく、余裕なくだまされていたのだ、という点。ウソでもいいから健康っぽいことして娯楽にするのであれば、あやういけれどアリ、でしょう。でも、根っこから信じてどうする。というか、信じるのであればそれなりの覚悟をしなさい。たやすくかるはずみになんでもかんでも「信じる」なんていうのは精神の貧困以外のなにものでもありません。そんなやすっぽい脳みそしかもっていないからあっさりとだまされるんですってば。

テレビの中にウソがあった時代から、テレビが真実をかかえる時代になり、テレビに映るものが真実である時代になった、というのはとり・みきの言葉だけれど、その結果、さらに今回のあるある事件は人々の真実こそがテレビを媒体としてすべて虚構に立ち返っていることを示すのかも。

彼らはなにかのケンイによりかかりたいけれど、真実にはよりかかれないのかもしれない。真実とかけはなれたもののみがケンイとなる世界は純粋にスピリチュアルです。でも、それならば根拠がなくってもいいんじゃないの?捏造でもなんの問題もないんじゃないの? その証拠に「ばれていないもの」はみんないまだに信じているわけでしょ?検証もしないで。

だとすると、次に表舞台の話題づくりとして狙われるのは泉ですか? それともおもっいきりですか?

どちらにせよ、知性のない世界のはなしだよなあ…