Anything Goes (again) ...

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はやりやまい

 ソシュールははやり病のようなものらしい。ある程度の知性がある人間はどこかで一度通過儀礼のように巻き込まれる。その意味でソシュールは思考実験的な不可知論と似ている。はやり病から立ち直る際に、その通過儀礼を発展的にとりいれてさらに思索のレベルを上げる場合と、単にそれまで自分がしがみついていた立場をソシュールの専門用語をまとわりつかせることで異分野的ケンイヅケをして専門家をけむにまこうとする場合と、大きく二つのスタイルがあるようだ。
もちろん、そうした専門家集団は、ふつう言語学なんかお門違いだし、自分たちのセンモンがそんなもので解釈されてたまるか、とこどものように身構えたりもする(一時ローカルなところで構造主義生物学でもめたけれどあんなかんじ)。

 で、上野千鶴子である。このお方、ぶっとんだこといっては「タタカウケンキュウシャ」みたいな誤解をされて悦に入っている気配があったんだけれど、いよいよ御専門ではタタカエなくなったのかいまさらのようにソシュールにとびついている。「学術の動向」11号(2006年)を見るとそのあられもない「あんまりなそのまんまぶり」に眩暈を禁じえない。大学院くらいの若造がこれをいうならばまだいいけれど、とりあえずあなたはオオゴショさんでしょ?シーニュシニフィエとラングとパロールを並べ立てれば構造主義ってわけじゃないんですけれど、おわかりになれませんか、みたいな。

 構造主義言語学にあまりにもジェンダーと性をナイーブに適合しようとしたために、うわっつらしかないうすっぺらな言辞の一丁上がり。いくら上野千鶴子が好きではない自分でもこれはあまりにひどすぎる。江原由美子が丁寧なフォローをしているのがせめてもの救いだけれど、へたすると上野千鶴子には江原さんのいうことが理解できないのではなかろうか…

 正直、いじわるなこといえば江原さんにはエスノメソドロジカルに「こんなこという上野千鶴子」を読み解いてもらいたかったのだけれど、それはあまりにも弱いものいじめがすぎますかね。