Anything Goes (again) ...

Yahooブログから移りました

安井先生が妙だ

たとえばこれ。
>http://www.yasuienv.net/Akasofu.htm

『暴走する「地球温暖化」論』に対する批評文。いや、この時点で書名が不正確じゃないか、というツッコミはあとまわしにします。まあ、先に武田先生の著書関連で先走った事書いてしまったせいでブログが活性化したから、ということもあるのだろうけれど、のっけから

>結論的には、「買うのではなかった」が感想。

というのは… いくらなんでもほうりなげすぎです。
本一冊で、たとえば今日の食事にも困っている、というのならば仕方ありませんが、そうでないのならばこういうのってかっこわるいし卑怯です。批評というものをきちんとする気がない、ということですし、読者にはまた印象批判のようなことをしているように見えますよ。

「モデルでわかること・わからないこと」という観点による平行線がこの記事全体を支配しているような気もするけれど、なぜそれが平行線になるのか、というと、

>「1950年で小氷期の回復期は終わった」、とするIPCCの仮説が正しいのか、
>「地球は、現時点でも小氷期からの回復期にある」、とする赤祖父教授説が正しいのか。
>勿論、本当のことは、モデラーで無いと分からない。あるいは、モデラーでも分からない。
>IPCCモデラー達の意見を聞きながら、議論をして90%確実という結論を出したことを
>無視することは不可能。赤祖父教授説もあり得るものの、その科学的根拠は無いのだから。

というレトリックを遣ってしまうからです。「モデラーでわかる」ことについての「科学的根拠」
それ自体を疑いの目で見るというのは「科学的」です。
逆に、「無視することは不可能」であることの根拠はそのためこうなってしまいます。

>個人的には、IPCCに参画した学者達の顔を思い浮かべながら、この人々が全員詐欺師だとは
>思えない、と思うのだ。CO2の影響が強くなるように、モデルを意図的に「しつけた」とも
>思えない。90%確実といわれれば、それを信じる以外に方法は無いのだ。

すでに科学者の発言ではありません。言い換えれば、「顔をみたところ学者たちが詐欺師にはみえないので、小氷河期は90%確実に終わった、と言われれば信じる以外に方法は無い」とおっしゃる。
それでもって赤祖父先生に対しては「科学的根拠がない」と言い切るのだから、安井先生には赤祖父先生のお顔がどのように見えていたのやら…

つまるところ、ある種の教義めいた内容になってしまっているのです。

>よく言われることだが、未来に対しては「後悔しない」対応をしておくことが正しい。
>となると、「温暖化は自然現象である。だから、なんの対策も不用」、という仮説で動くのか、
>「温暖化は人為的な影響が主である。だから、排出削減は必要」、という仮説で動くのか、
>どちらが将来「後悔しない」対応なのだろうか。これがこの問題の本質だ。

なんて言ってしまいます。こういう論点のすり替えは、ばれないところでこっそりとするものではないでしょうか。つまり、「温暖化」が科学的に正しいかどうかは本質ではない、ということ。さらに、「なんの対策も不要」と「排出削減は必要」を対峙してみせるというのもあざとすぎます。
「将来後悔しない対応は排出削減だけなんですか?」というところが「温暖化問題」のそれこそ本質ではないのかなあ。

たとえば、排出削減に使った予算で他にできることがあったのではないか、という「後悔」をしないと言い切れるのはなぜですか? 温暖化による被害が排出削減によって防止できる、とする科学的根拠はあるのですか? そもそも、温暖化による被害がそれだけあるという根拠は? といった具合に、前提となるべき議論がずいぶんはしょられていますよ。

ようするに、「温暖化については科学的吟味をするよりも、信じて排出削減するのが正しい」という主張に見えますが、それはどう考えてもあからさまにオカシイですよね?

たとえば、安井先生が「読みもせずに批判した」武田先生のスタンスというのも実は大事な「本質」をかかえています。PETボトルリサイクルに問題をフォーカスすることで、その本質はぼやけてしまうわけだけれど、私たちの日常生活における「労働とコスト」をどう考えるか、という本質的な問題。
ゴミは分別しましょう、といって町内会がパトロールして他人のゴミ袋をあさって持ち主の家の玄関に放置する、というような「活動」の背景にある「分別行為」自体のコストというものを誰か計算してみましたかね?

分別作業自体が家庭内で行われているためにそこにかかるコストは「ない」ことになっていますか?
あるいは、分別するためにいままでは洗わなかったいろいろな容器、納豆のパッケージとかを洗う事による上水、下水の処理負荷については誰か試算しましたか?

ゴミの分別は「家庭内労働はただ働き」「水と下水処理はただ同然」という背景があって成立しているものです。分別やリサイクルに要する行動が家庭内におさまっている限り、見かけの上ではそこに金銭の流れはおきませんからね。その分、家庭内の人間に労働と時間を強いている以上、本当ならばこれもまた経済効果として換算してコストに算入すべきだと思うのですが。つまるところ、本来ならば分別にかかるコストがリサイクルによって軽減される自然負荷とバランスしていないと意味がないはずなのですが、そこのとこ、どうなんでしょう。それこそ、「モデル」で解明できそうな気がしますが。
武田先生の本は、PETボトルリサイクルを例にあげて「リサイクル行為がすべて自然負荷をへらしているわけではない」という、日常生活ではあたりまえの感覚を示しただけです。「分別のプロ」みたいな主婦がテレビに紹介されてしまうくらい、家庭内での「ゴミの分別」は生活に負担をかけているのに、リサイクル行為がちゃんとエネルギー資源の無駄を減らしていなかった、では国民は納得できませんから。分別行為やリサイクル行為によって逆に石油資源を無駄遣いしているとすれば、いったい我々はなんのために分別をしているのでしょう。現に、分別されたゴミを燃やす為に重油が使われています。焼却の現場では、ため息をつきながらプラスチックゴミがまざっていてくれたほうが炉にとって良いのに…というつぶやきがあります。

これらがすべてひっくるめて「リサイクルしないよりはしたほうが将来の後悔が少ないハズ」という無根拠な信念によって(そしてもちろんリサイクルで儲けようと言うあまたの企業の流れに乗って)、分別しない奴は人非人的な風潮ができあがっているわけです。

再生紙の偽装なんかはその最たるものかもしれません。リサイクルすることによって紙質が低下していくことは自明です。コストもかかっている。でも、一定のリサイクル率を標榜しないと買ってもらえない、という力学。「そんな無理なことはできません」と突っぱねられない政治的な力学が業界には根強いのでしょうね。レジ袋やマイ箸も同様。「みかけのわかりやすさ」に踊らされて「エコ」を主張させられている間にどこかがウハウハと甘い汁をすすっている気がします。

分別やリサイクルは一種の宗教みたいだと思います。

あげくの果てに安井先生は文章をこうむすびます。
こじつけにしても品がなさすぎます。どうしちゃったのでしょうか、安井先生は…

>面白いことに、反温暖化論者には、愛煙家が多いようなのだ。
>この本を読んでいても、そんなニュアンスが伝わってくる。
>「まあ、大丈夫だよ」、「喫煙していても、長生きできる人は多いよ」、
>「喫煙しなくても、自動車の排ガスが原因だから肺がんで死ぬ人は多いしね」、>
>というメンタリティーで温暖化を見ているのかもしれない。

禁煙主義者の中には、極端な主張をする人がいます。もしかすると、温暖化論者には禁煙主義者が多いのかもしれません。いや、禁煙主義者には温暖化論者が多いのかも(笑)。繊細で、まじめで、どこかヒステリックで、一般化が日常的思考スタイルで…とか? 先日某所では毒入り餃子の話題で「殺虫剤の入ったギョーザは確かに危ない」けれど、「JTのたばこの方が、ずっと危ない気がする」と主張している人がいました。
受動喫煙させられることを、毒物を無理矢理飲まされているようにいいなす人もいます。
毒物入りの餃子を食べてしまってまだ入院している女児に向かって、「タバコに比べれば危なくないのだから」と言えますか? まったく…

単純に、安井先生が個人的に他人のタバコの煙が嫌いだから、というだけのことをこういうふうにすり替えているのではありませんか?

安井先生の「愛煙家」うんぬんにはこういった極論が混入しています。
なんだか、先日のブログの「活性化」がつらかったのだろうな、とは思います。
でも、学者同士のなれ合いではなく、一般の人も見るところで言辞を弄するのであれば向き合わなくてはならないハードルですよ、それ。

でもね、こういう展開って簡単に言ってしまえばまさしく「洗脳・煽動・歪曲の数々」なわけです。温暖化問題の「本質」についてとやらにしても、「愛煙家が多い」だの「顔つきが」だのと、みんなそう。で、あればこそ、安井先生はおたたきになられている相手の書名を正確に紹介できなかったのですね。だって、本当のタイトルは『暴走する「地球温暖化」論―洗脳・煽動・歪曲の数々』なわけですから、ここから「洗脳・煽動・歪曲の数々」の部分を意図的に省いたのだとしたら…なんというか、かわいいとこありますねぇ。