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キャシャーンSins

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 いまさら改めていうまでもなく、実写版キャシャーンの映画はひかえめにいっても駄作である。
 確かに、そこにヘルメットと犬は欠けていた。それは、「ウリ」のはずのイケメン俳優をつかう手前顔をかくせないから、と、CGにせざるを得ないロボット犬は金がかかるから、だ。ロボットを倒すシーンも金がかかるから最低限しかつくらなかった。テレビ放映時には主題歌のほうが台詞よりも重要だとばかりにラストを歌でうめつくした。監督と制作スタッフは仲が悪く、助監督が何度も交代した、というぎごちなさだけは画面に的確に表現されていたとはいえるかもしれないけど。

#そんなものを入場料とって見せるんじゃねえよ、という良識については問うまい。

 これがひとつ。でも、そんなことですらなんら致命的ではない。

 小林靖子のSinsによって気づかされたのはもうひとつの真実だ。

 実写映画は、ストーリー的には原作アニメをなぞっていたという事実、そして、にもかかわらずアニメ版に対するリスペクトが皆無で、「どーせこうすればキャシャーンなんだろ」という軽薄な符牒合わせ程度のつくりでしかなかったという現実。うがった見方をするならば、そのために生じた物語性の希薄さをごまかすために「見た後にその人がなにかを考える」というこじつけがましいキーフレーズを監督はつぶやかざるを得ないほどに、ということだ。ばからしい。どんな作品であれ、それがきちんとつくられてさえいれば見た者はそこから自らについて何かを考えるに決まっている。そんなことをすら宣伝文句にしなければならないほどの希薄さを、監督は無意識のうちには了解していたのだろう。所詮、うわっつらをなぞっただけのまがい物は正しくまがいものにすぎなかったのだ。

 Sinsを見ると、別に博物館にしまいこまなくてもキャシャーンの「顔」は表現できるということが誰にでもわかる。そして、メインのストーリーをどれだけいじってしまっても、たとえ、キャシャーンがルナを殺したことで世界を崩壊させたというような設定にしても、量産されるロボたちのほうがキャシャーンより何倍も人間らしい世界でも、それでも、芯をおさえてさえいればそれはまぎれもなく「キャシャーン」以外のなにものにもなりえないことを小林靖子は証明してみせた。
 ここにあるのは、オリジナルのキャシャーンに身悶えするほどの愛を背負ってしまった業のなせる技にほかならない。

 キャシャーンとは、終末の世界観の中で、諦観と希望がせめぎあう物語だ。そのせめぎあいはキャラクターの心情なのであって、モノによるものではない。哀しさを背負い戦うからこそ、「キャシャーンがやらねば誰がやる」のだ。たとえ、そのキャシャーン自身が問題の根源だといわれても。実写映画はその諦観を単に希望の薄い終末をえがけばよいという軽薄なる着地点に求めたわけで、CGで背景をがんばってつくっても、いれるものがなければ器は当然、空っぽのままだったわけだ。

 Sinsには、放映当時の最初のキャシャーンを見ていたときと同じような、次週に対する期待がある。それは、丁寧につくられた脚本と世界観によるものだ。一週間を楽しみにする番組が、また一つ増えた。

 過去のキャシャーン2作(当然実写は含めず)を含めて、3作全てでブライキング・ボスを内海賢ニが演じているのも良い。

 心配なことはたったひとつ。Sinsが来年の新電王にかぶらなければよいな、という点だけ。小林靖子なしの電王は考えられませんから。