Anything Goes (again) ...

Yahooブログから移りました

風評被害ってなに? その当事者って?

 「科学的根拠・実害がないのにもかかわらず不安心理によって経済的損害がでること」かな。
 で、これについて最初におもいつくのは科学リテラシーの必要性。無教養によって無責任なふるまいをするのはねえ。そんなことを考えているうちに次の事に気がつく。でも「経済的損害」といっても「まだ買っていないもの」を「買っていない」だけで、売る側が「これだけは売れるはずとあてこんでいた通りにならなかった」ということでもある。これ、普通の「宣伝」と本質的には一緒だ。過剰広告によって「本来なら買う必要がない物を買わされた」消費者の行動は「損害」とはいわれない。あれ?
 これって、結構微妙な問題じゃないか?

 たとえば、心配ないと安全宣言されたにもかかわらず「不安だから」といってペットボトルの水を買いあさる。ペットボトルの水が欲しいほかの人にとっては在庫が減るから「困る」けれど、本質的には理由はどうあれ安い水道のかわりに勝手に高い金払って経済活動してくれているのだから、その購入動機が間違っていようがなんだろうが関係ない。「家庭に小さい子供がいるから」という理由でちょっとでも「不安」な要素のあるものは買わないで、高いものを一生懸命に買う、という行為も、その理由がなんであれ、経済活動としては個人の自由の範疇だろう。勝手に高いもの買ってくれるんだからいいことなんじゃないの?金持ちが無駄遣いするのはある意味では「特権」だしね。それに移動した100円玉に罪はない。
 その結果、いつぞやに毒がこわいからと中国産を毛嫌いして「国産でなきゃ」と言っていた人たちが今度は放射能が怖いから国産はかわない、と。こうして見るとただのギャグなんだけれど。

 で、思う事。風評被害ってなんだろう。ちょっと大規模な宣伝活動みたいなもんなのではないのか。
 でもさすがにコレはないな、とは思う。
「広瀬「過失致死傷に当たる。原発事故によって沢山の方が亡くなっている。これだけの事故は起こり得ると書いてきたものを証拠資料として提出。これは単なる過失ではない。未必の故意」 ( #iwakamiyasumi2 live at http://ustre.am/pPQY)」
原発事故によってたくさんの人が亡くなっている」という煽りからして、データをだせよ、と言いたい。たとえば今回の福島の事故で亡くなったのは津波の際に建家にいた人だけ。JCOの時ですら2名。よもや一人より多ければ「沢山」なのか。ちびねこなのか。まあ、これは極端な例だけれど「原発」というものの認識について故意に間違った情報を流す事で影響力を発揮しようとしている、というパターン。広瀬家の味噌買って食えって?

 あやしげな壷をかわされた、とかいう場合、買った人の判断力と売った人間の立場と、どう考えるのか。レメディうりつけられたけど病気なおりませんでした、という場合は?

 ここで悩むのは「風評被害」における「当事者」とは誰か、ということだ。だって、被害の背景において加害当事者たる「実害」は存在していない事が前提なのだから。そうすると、考えられる当事者とは、「不安のタネを報道して煽ったマスコミ」と、「間違った情報にふりまわされて普段とは異なる消費行動に及んだ消費者」が加害側のそれで、「そのために、いつもだったら売れるはずのものが売れなかった(と信じている)」販売者が被害側の当事者ということになるのだろうか。
 「あれはイイモノらしいよ」とか「あそこの歯医者はやめたほうがいいよ」というクチコミは、いまやネットという媒介を得て購入選択時の大きな判断根拠の一つとなりつつある。価格.comの価値なんかは普通の人にとってはここにこそある、といっていい。でもさ、クチコミで「売れる」のも「売れなくなる」のも、結局は「風評」なんじゃないの?売れなくなれば「被害」だし売れれば「利益」ってだけで。今回だって福島産が売れなくなったおかげで、関西や九州等の産物が首都圏に大量に入ってきた。これを売っている人たちにとっては原発風評被害はまさしく風評利益だ。

 端的な事を言ってしまえば風評被害は「本当ならこれだけ売れたハズ」だという被害の申し立てと、それを認めるだけの共通了解が背景に合致した場合に成立する、いわば徳政令のようなものだ。ある意味では言ったもん勝ち、ごねたもん勝ちのようなところもある。それが、「風評被害」という言葉として独立し、公的な機関によって賠償金が扱われる、という事態は、この国がちゃんとした資本主義を成立させていない、ということなのかもしれない。
 言い換えれば、この賠償金の発生について、誰もが当然と思っている限り、原発で非難された「絶対安全神話」はいまだ根強い、ということだ。商売というものが必然的にかかえもつリスクを度外視して、売れた「はず」を根拠にする、という行為は、ちょっと冷静に考えればいろいろとおかしいものなんじゃないの、と。

 それは、もちろん関谷直也が「風評被害」(光文社新書)で指摘しているように日本人が「リスクを避け」て、「絶対的な安全」を追求し、「科学的根拠もなく主観的に」、自分の感性のままに行動した結果おこる事態こそが「風評被害」ということである。「絶対安全神話」の姿をかえた物が「風評被害」という概念なのだ。

 シンブルに考えれば、風評被害に対抗するための観点は「経営妨害・商売妨害」の迷惑行為対策、あたりだろう。自分に可能な範囲の宣伝活動をはるかに超えた規模でネガティブキャンペーンが実行される、となると、そこには理不尽な迷惑行為が(ただし日本人の国民性によって自然発生的に)出来するということになる。じゃあどうすればいいんだ?

 なんか、うまくまとまらない。つまり、「無知に根ざした「判断」は間違っている」という義侠心から発想すれば風評被害はあってはならない下劣な行為だ。でも、経済活動と資本主義の理屈から考えれば、当然つねに存在するリスクを想定して自由経済を行う以上、風評被害を被害認定して公的補助をするのはやりすぎ、ということだ。

 本質的な結論は「みんな、ちゃんと考えようよ」しかない。「考えてますよーだ」と歯をむきだす手合いがまだまだ多いから、それでも風評被害は後をたたない。それ以前に自分たちは「考えた結果正しく買うべきでない物を選別しているのだ」という意識すらあるかもしれない。でも、そんなひとたちは1960年代初頭のことを忘れているのだろう。あのころ、白米や玄米に含有される放射性セシウムはkgあたり1ベクレルを軽く超えていた(ミリでもマイクロでもない。1ベクレル)。チェルノブイリ後ですら、それよりもずっと低い値だった。自分たちの50年前、そして、その50年後が「いま」なのだから、ちゃんと過去から学ぼうよ、というのがもうひとつの正解。

 ついでに指摘しておけば、政府が東電が「何かを隠している」というような発想はたんなる陰謀妄想。岩上安身のように、「東電を少しでも認めるのは原子力マフィアだ」みたいな妄想の極北にまで旅立たなくてはならなくなる。せめて、常識と良識からはあまり遠ざからない方がいい。

 結局のところ、他人の人生に人はどこまで干渉する権利をえられるのか、というはなし。Aというものを「買う」または「買わない」という「行為・決断」に対してどこまで介入できるの?
 購入動機が「間違っている(科学的に・論理的に・道義的に)」場合だって、それでも購入行為は個人のものだから指摘してうるさがられることはできても行為そのものに介入はできませんね。検出されている放射線量は摂取しても問題ないとおもわれるのになぜ買わないのか、と指摘して、「だってこわいんだもん」とやられたらはいそうですか、と。わざわざ高いものを買ったり、かえって体に悪い物を買ったりしていても、本人が不安だからそうしているといわれたら仕方がない。せめて、チョークたべるとか消しゴムたべるとかしてくれると「それは食べ物じゃないでしょ」という「健康」をかさにきた介入が可能になるけれどさ。
 で、そうなると次の問題は「規模」なのだ。ここでも、量が質を凌駕する瞬間がある。ベジタリアンがなにをさけんだところで畜産農家は自分たちの肉の売り上げにたいして影響しないはず、と信じていられる間はそこに「被害」を主張もしない。彼らは、そもそもベジタリアンを顧客として想定していないから(当然だ)、そこには「想定された売り上げの損失」は発生しないものね。被害が成立するためには実際に「ものが売れなくなった」という事象と、売れなくなった理由が農家にはなく、どこかほかの無関係な所になければいけない。そうでないと風評被害にはならないわけで。
 でもさ、風評かどうかすら本当は関係ないんだ。野菜については、TPPによって海外産のものに自分たちの野菜の居場所がとられるという「被害損失」を想定したからこそ、猛反対しているし基本的には「儲けがどこかにとられるのは嫌だ」という話。TPPだろうと放射能だろうと、農家のあずかりしらないところの話が農家の予想売り上げを浸食するから「風評被害」なのだ。

 だから、いまいちど、「自由」と、そして「責任」について考えなければいけない。あなたが稼いだそのお金で何を買うのかはあなたの自由であり、権利だ。あなたが、目の前の人がばりばりとチョークを食べているのを見たとしたら、無視するか、どうしたかと声をかけるか、選択しなければならない。もちろん、後の選択は社会人としての責任だ、と考えるむきもあるだろう。
 だから、「風評」(風評だから、科学的に間違っているし、論理的にはなんの根拠にもならない)に基づいてあなたが何かを買うのを「やめた」としても、実はそれはあなたの自由であり権利だ。人が間違った根拠に基づいて行動する事を罰する法律はない。あなたは、存分に自分のかせいだお金を間違った根拠に基づいて使い倒すことができる。ただ、それを見た生産者が「どうして俺のつくったものを買わないんだ」と目くじらをたてた場合、そこに戦いが発生するし、ベジタリアンの例のように、その「被害」が小規模な物であれば「なんだ、かわいそうな人なのか。じゃあ買わなくてもしかたないな」ですむ。問題は、あなた以外にも大勢のおばかさんが同様の「選択」をして被害がちょっとしゃれにならなくなった場合。さかのぼってもっと大きなレベルで問題源があるのだから、という免罪符をもって補償金のようなものが発生したりもする。ここで量が質を変容させてしまう。

 でも、それでも、たとえ根拠が間違っていても、残念ながら資本主義自由経済の世界では本当はその「補償」は間違っているんじゃないのか。

 何がいいたいかというと、風評「被害」が公の概念として成立して、補償金も発生するような社会って、本質的には個々人の経済消費活動における自由意志の尊重を忘れかけた世界なのではないか、ということ。「風評」に流されて馬鹿なお金をの使い方をして、あるものを買ったり買わなかったり、ということもふくめて資本主義社会なんじゃないのかな。自由には責任がつきまとう。その責任は、本人がとれるものもあるしとれないものもある。頭の悪い判断をして間違った行動をする自由は、この人はそういう教養のない人間であるということの吐露して社会に対して支払われる。

P.S.おまけ
UnCyどうしちゃったんだ… まともすぎるし。
しかし、それぞれの「例」の流れみているとひっかかる馬鹿ってどうしてみんな同じ事しかいわないのだろうと。何十年も前のパソコン通信の時代から、この手の人たちのいうことって決まっちゃっているんですねえ。ようするにやっばりのうみそ使ってないんだな。

>http://ja.uncyclopedia.info/wiki/UnNews:山本太郎・松田美由紀/共著_「放射能で稼ぐ」9/11発売