Anything Goes (again) ...

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ハンゲンパツと科学信仰のイビツバージョンとラカニアン

 図書新聞の評論文なんかでも顕著だけれど、「人類はその手に余る原子力をうんぬん」という論調、とにかく頭ごなしに原子力は絶対悪で、それを否定しないと文化的言辞は成立しない、という勢いだ。下品な「フクシマ」表記、根拠のない隠蔽論、陰謀論のふりまわし、存在しない「放射能被害」によって「死の町」という恐怖のバーゲンセール。
 もちろん、そこには科学的な根拠なんかないし、裏付けの調査もしていない。ただひたすらに「原子力はコワイコワイ」といいつのるのみ。そして、「原子力コワイ」といいさえすればどこからか支持者が集まってきてお祭りになる事を自覚しているきらいもある。気持ち悪い事にそこそこの「シジシャ」はすぐに寄ってくるらしい。この、いびつさってなんだろう。
 「差別構造としての原発」なんていうキーフレーズまでとびだしてくる。これ、一部のギョーカイではキャッチーらしい。でも、その中に蠢いているものは、ひとことで言ってしまえば戦後政治活動の流れから澱みの中の沈んだ澱のように沈潜していた左翼の悪あがきだ。それ以上ではない。それ以下ではありうるけれど。
 大きな政府の力が富と権力のために原子力行政をうごかし、下々のものは搾取され、その結果フクシマは死の町と化した、みたいなストーリーができあがっている気配すらある。なんだこの気持ち悪さは、と。
 もちろん、広島と長崎、第五福竜丸を経て日本人は放射能に敏感な国民性を獲得した。と、同時に鉄腕アトムラドン温泉といったかたちで日常的な文化の中に「親しみのある放射能」すらも獲得した。ドラえもんだって原子炉で動いているのだ。
 さらに、戦後の経済成長で共産主義的左翼活動は矮小化され、居場所を失った。呉智英が「珍左翼」と看破してみせたように、ある種のセルフパロディとしてしか居場所はなくなったのだ。
 「原子力」というキーワードに相乗りして、いびつな終末感と反科学的主張を繰り返す姿は、逆に「原子力」を仮想敵とするあまりに、とにかく「コワイ・キケン」の対象としすぎるあまりに「スゴイ科学」としての原子力に振り回される科学音痴、の構図でもある。言い換えれば、ここには文系言論者たちの自然科学に対するアニミズム的な恐怖心と畏怖心、そして、それでもなお自然科学に言及するという行為をあきらめきれないあこがれとが支配する心理があるのだ。
 彼らにとっての「原子力」は土偶のおっばいのようなものだ。
 これは、残念ながら文系言論者の一部にとっては真新しい問題ではない。ラカンやその信奉者たちがやらかしたように、「自然科学っぽい」表現や文言をからめることで、実体をともなわない権威付けをしてしまう欲求にあらがえなかった、科学への幼児的な憧れには枚挙にいとまがないからだ。ラカンやラカニアンの言動のゆがみやおかしみは、結局はソーカル事件として総括されているわけだけれど、そこから何も学ばずにまたしても同様の事を繰り返している。
 ラカニアンは科学的気配を自らの言論の補強材として援用しようとして失敗し、いまふたたび原子力という「科学」を真っ向から否定してみせることで、みずからの科学への羨望とゆがんだ愛情をアピールする。
 一見、災害の被災者と人類のこれからに対する配慮と危惧に満たされているように見える。でも、それはそう見えるだけだ。「フクシマ」という表現に端的にあらわれているように、そこでのアピールは「週末論でさわぎたい自己満足」の域をでず、常に、被災地や被害者をないがしろにする方向に機能する。

 「子供たちを守る」ための活動だったはずのものが、インターネットで堂々と気に入らない研究者やボランティアに対する「殺人予告」をやってのけたり、さらにその殺人予告自体を「社会活動には不可欠な尊いものだ」ときめつけるような発想をネットにばらまいたりするようになる。

 その言動がおかしいという現実に気付きもしない。
 これもまた、ひとつの宗教的熱狂である。ただ、背景にあるものは信じる心ではなく、目立ちたい一心の劣情であるところが情けない、というだけのはなしだが。