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デジモンアドベンチャーtri「決意」(お約束の森)

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 しかし「信者」のついてしまった作品というのはしんどいものだなあ、と思います。劇場の熱気、上映後にみんなくちぐちに興奮冷めやらぬ勢いで叫ぶように満足感をアピールしていた上、初動は前回の「再会」よりも売り上げている映画なのに、レビューページ見ていると「こんなの〇〇じゃない!!」系の宗教論のほうが「声が大きい」。この手の「新しいものにはとりあえず拒否反応」というのにはもう飽きました。ちゃんと映画みりゃいいじゃん。ちゃんと旧作の作画クオリティという現実も直視すればいいじゃないの。旧シリーズがもっていたものが、相応の成長と変革を遂げた上でここにちゃんと「ある」でしょうが、と。まあ、ついてしまった「信者」というのは餓鬼みたいなもので何をどれだけ与えても飢餓感だけが拡大していくのだろうから、せんないことですが。
 と、少々愚痴った上で、今回、前作よりもできがよいです。一作につき二人ずつ子供達をとりあげていくスタイルもはっきりしたみたいで、前回陰にいた丈、そしてミミにスポットがあたり、それぞれが「決意」していく流れ。デジモンたちは技名もさけびます。いきなり究極体になることもなく順序をふみます。おもしろいのは究極体のデザインがこれまでの作品とは少し違う解釈をしていること。この作品世界ではどちらも「初出」となるからこそできる。
 監視組織の内容、レオモンとオーガモン、デジモンカイザー(コスプレかも)、ハックモンとメイクーモン(成熟期だった)、などなど随分多方面に物語のきっかけをすすめていきました。個人的には大江戸温泉と文化祭の日常パートはちょっとしつこかった感じですが。
 物語りとしては前回冒頭で出てきた「裏のデジタマ」の世界が今回は関わっていない(ように見える)ので、そこあたりから3部で入り込んで欲しいところ。感染源としてのメイクーモン(とはいえ今回は自衛のための暴走だったけど)と、どうみても監視しているハックモンとか。
 子供たちはミミと丈の「悩み」が今回のポイントです。それぞれ、子供だった頃の性質をさらに年齢相応に先鋭化させたあげくの悩みとなっているのだけれど、小学生の頃を引き合いに出して「こんなの違う」とやっても意味ないよね、というスタッフの無言の圧力すら感じますね。ミミの「強い自我とマイペース」、「丈の不器用な責任感」、それぞれ、ラストの究極体につなぐ流れも含めてよかったです。トゲモンに落とされたヘリコプター、ヒーローマンでまわりをうろちょろしていたヘリを思い出してしまった。あんな近くまで寄るとかどうかしてます。
 レオモンについては、コミカルな扱いから、ラストの「お約束」への流れが今回だけで集約されました。さて、このあと再登場する際にはバンチョーになっているのでしょうか。それとも、初枠でグラップでくるとかもあり、かな。

 さて、triの不幸な部分というのは「当時からのファン」の年齢だろうと思います。思い出補正で美化されまくった人たちの内部のイメージに対して、制作側は「現実に作られた作品」を出発点とするわけで、そりゃあずれますわな。その「ずれ」を許容できないとなると、誰にとっても不幸な結末しかないだろうにねえ。まるで老人の「昔は良かった」攻撃になっちゃいますよ。でも、ボックスの販売、再放送枠での提供、と「昔はこうだったでしょ?」とあれだけ丁寧に下準備していた上で「これ」ですから、たぶん製作陣は「当時からのファン」をメインターゲットにすえるのは辞めていく(あるいはすでに辞めている)のではないかな、などと思ったり。だって、グッズ販売以外では何一つ生産的じゃないですから、そんなの。

 さて、秋の第3部はヘラクルカブテリモンと思わせぶりなパタモンです。ここも、オリジナルを踏襲する流れになるのかもしれません。

 ひとつ思いついてしまったのだけれど、「再会」冒頭で触れられた、嫉妬にかられる裏のデジタマの世界、「リアルなデジモンアドベンチャーtriの世界」に対して感情的な歪みと敵意をもってぶつかってくる「信者」たちの「ボクのカンガエタ最高のデジモンアドベンチャー」の世界だった、という皮肉… まあ正面きってはやらないだろうけれど、そういう側面はあるのかもしれないな、とか思ったり。