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「七瀬ふたたび」 をふたたび

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七瀬ふたたび、初日に横浜で。二日目に再度横浜で。
絶望的な観客数…大丈夫かシネマリン…
 
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ジュブナイルの小中監督、さすがです。

いや、でもまず最初のしょこたんのことからですね。脚本と構成は小中とはいえ、よくやりました。
もともと漫画的表現に慣れていたこともあるのだろうけれど、下手なオサレ気取り監督なんかよりずっとまとも。

#本人が大根なのは別として(笑)。

一番の収穫はしょこたんの「女性性」のエロさが際立ちましたよ、というあたりで。
普段はそういう気配の希薄な人だからなおさらびっくり。
多岐川さんの美しい年の取り方とあわせてびっくり。NHKの時、懐かしいなあ。

本編は、うまいことやっています。伊藤さんはエレハン以来ですが、SFの伊藤は健在です。
もちろん、本編みていると時々気になるところはあるんです。謎の組織の位置づけとか。不自然というか中2病的というか。
でも、それって「原作」のせいなんだよねぇ…
そのあたりの悪いのは、というか不自然なところは全部筒井のせいです。
さらに、あまりにも不自然にそういう部分が「気になる」ように作られているので、
たぶん、伊藤さんも小中さんも露骨に「わかって」やっていますな、と。
つついきょーの信徒さんには申し訳ないけれど「原作に忠実につくる」ということは今回についていえば「そういうこと」なのです。

ところどころ「わざと」古い映像風に手を加えているところとか、昔の雰囲気をとりこもうとしたのかな、と思います。北海道で買い出しに行く時とか、批判の多い(笑)湖の上を飛ぶところだとか。
でも、この「飛ぶ」シーン、その後のヘンリーの自立につながる、「上位自我から自らを取り戻す」きっかけみたいなシーンなんだよね。そこを「昔の特撮風」にしたのも象徴的。

ある意味では今回の七瀬は原作の否定からスタートしているわけで。

#原作に忠実に映像作品をつくろうとすると自動的に原作を否定する事になる、というこの現実が
#原作の「正体」をつまびらかにしています。

原作にあった閉塞感あふれる展開は、巧妙に軸をすこしづつずらすことで前向きなSFに変貌しました。
当然、その結果「エディプスの恋人」につなぐことも拒否しています。
すばらしい。原作のシチュエーションを生かしつつ、圧倒的に物語としての完成度を高めました。
たぶん、ツツイシンパ(「つついすと」とか、今でもいうのかな)にとってみれば明瞭なる「原作レイプ」でしょうねえ(笑)

もちろん、筒井本人もあの性格ですから、今回「作家生活50年」とか見出しつけておきながら、映画のプログラムにも「本人は一文字も登場せず」です。
細田さんの時かけの時だってコメントしていたのにねえ。
わかりやすいですねえ。
まあ、プログラムの出来としては原作者が言葉吐かなくて大正解だったわけですが。

しかも、はっきりいってラストの新展開も含めて、今回のほうが原作より格段によいのです。
原作にあった社会派モドキ的エセ絶望かたるしすは、パラレルワールド展開と
「自分はどうして生まれてきたのだろう」という問いに対する明確な解答とともに払拭されました。
すばらしすぎ。世界は「つくられる」のです。筒井の想像をはるかに超えて。
原作がもっていた「しっくりこない」エンディングが、初めてきちんとした着地点を得たという意味で
今回の映画は映像化された「七瀬ふたたび」として独特の地位を築きあげたといえます。
表題すらも、今回の本編の物語にそって改めて命名されたかのような落ち着きっぷり。
エンドロール見ていてしみじみと思う事、このタイトルが「ふたたび」だなんて出来過ぎだ…

てか、ぶっちゃけ筒井作品は「筒井色をいかにとりのぞくか」がまともな作品をつくるための最低限の条件なんですね。
ウルトラセブンが金城の呪いから抜け出すのが大変だったように、原作者の呪縛が重いのだろうと。

結果的に、作者のかわりに切通とかわいちゃったけれど、でも作者よりはマシかもね。
蜷川さんのセンスが本編にはいる余地がなかったのはちょっと残念だけど、あのポスターはキャッチーだし星さんの魅力もずるくでています。

脇を固める俳優陣がまた贅沢すぎ。
これ、筒井康隆なんか全然知らない人ほど、きちんと評価できるのかもしれないなあ。

でも、「元ツツイスト」としては「エディプス」をきちんと封じて終わったことも含めて、何一つ文句はありません。下品な原作者が作品世界に土足でふみこまなくてよかった。

#作品の「外」ではあいかわらずぐちゅぐちゅ下品なことを言ってるようですが…

「七瀬ふたたび」はようやく生まれ変われたのかもしれません。
小中監督、ありがとうございました。