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アシュラ (さとうけいいち監督)

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 ビッグオーで名前を覚えて、タイバニで好きになったさとう監督。ところがタイバニの映画ではなく、次回作となったのがこれだった、という。箱が限定されるのでなかなか見に行きにくいかもしれないけれど、これは傑作です。
 原作はいうまでもないジョージ秋山の「アシュラ」。もちろん、映画として公開するものとして成立させるためにさほどの残虐描写はでてきません。このあたりは原作の力を期待するむきにはちょっと不満がのこる点かも。あるいは、アシュラが若狭に安易に心をひらきすぎる、等も展開としては不満が残りそうですが、このあたりは逆に原作もそういう感じだしなあ。

 まず、「手書き風のCG」なのですがそれがとてもきれいに噛み合っていて美しい。特に、自然の描写は特筆モノです。「おおかみこども」が実写とみまがえるものをつくる、という手口で描こうとしたものを、「アニメの文法」にのっとって、さらに、もしかすると本物の風景よりもインパクトと感動をもたらすものができあがった。さらに、さとう監督の「魅せ方」が実にうまい。ある意味では教科書的お手本のようなうまさではあるのですが、安定して的確にメッセージがつたわってくる「かたち」です。実に、映画の王道。

 さらに「きびしい自然とそこに生きる人間」という対立構造の中、「人間らしさを求める主人公と、ヒトらしさを失って行く村人達」の対比がかっちりと描かれます。人肉を喰らい、多数の人の命を殺めて生きてきたアシュラが、誰よりも最も人間らしい、という一見矛盾にも見える流れ。村人たちの「仕方がない」の中に潜む強烈な「人でなし」の因子(子供を売り、死んだ赤子を食べる)は、若狭の言動の「きよらかさ」を最終的に欺瞞として浮き彫りにします。アシュラが携えた馬肉を「人肉」だと一方的に決めつけ、命を失おうともそれを口にはしない、という拒絶を示した時、若狭はアシュラに対して「いまでも人肉をあたりまえに食べている(まわりの村人と同様の)存在」という決めつけをしており、すなわち、若狭が希求していた「人間らしさ」というものが若狭本人の主観と欲望、願望に裏打ちされたものでしかなく、法師の伝えようとした「人らしさ」ではなかったことがまたアシュラの上に強烈にのしかかる。
 このシーンが最後の「闘い」の直前であることにより、村人たちが村を焼き付くさんとする無謀で狂った光景の引き金となります。

 闘いの光景は、さながらダークヒーローのラストバトル。よもやアシュラでこの手のカタルシスを感じるとは、というほどにめりはりのきいたシーンが続きます。このあたりも監督の腕、ですねえ。
なにしろ、地頭は自分のクズ息子の敵討ちで暴走してるし、村人も褒美目当てで暴走しています。地頭本人が死んだ後(褒美の確約がなくなったのに)も山に火をつけながらアシュラを追い回す村人たちの狂気。

 要所要所を締める法師は、原作の浮浪さんみたいな坊主ではなく、しっかりと歳を重ねた姿です。その語りのうまさ、読経のうまさも北大路氏ならでは。アシュラの成長のポイントで背中を押すと同時に、自らもアシュラの生き様によって悟るところをえる立場。

 最後、僧となったアシュラは、若狭があれほど憧れていた都にいます。とりあえず、今の時点で今年見た映画の中で一押し、です。細田監督が「おおかみこども」で描こうとして、そして失敗したものを、強い説得力と魅せ方で実現したのが本作ではないか、とも思えます。自然と野生と人間性のせめぎあいとおとしどころの物語。

 さとう監督はすでに動いていたプロジェクトへの途中参加ということだけれど、たぶん、中身を大幅に変更した気配です。なにしろ、当初の流れが「若狭とアシュラの美女と野獣路線がほぼ確定していた」とか…それやらかしたら究極の駄作となっていただろうなあ…

 それにしても北大路のおとうさん仕事し過ぎ(笑)。とかいいつつ、一瞬キラルの人にも聞こえちゃっていたり。大御所野沢氏も、立派な存在感でした。

#悟空にしかきこえない、とかいっちゃう人は作品への没入能力に難あり、ですねえ。
#それとも、ギルモンにしかきこえなかったーとか言っとけばいいの?

 ところで、さとう監督の次回作は聖闘士星矢の映画ですか。それも見に行かなくては、ですねえ。