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Mr.タスク Is man, indeed, a walrus at heart? (で、やっぱりムシュタシュはダメなんだね)

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 このところ新宿にでてくる機会が増えました。今回は、このまえから気になっていたMr.タスク。ネタとか、俳優とか気になるポイントがいくつもあるやつです。宣伝にもあるとおり、ある男が「セイウチに改造されてしまう」ホラーです。ホラー?うーん、実は実際に見てしまうと僅かばかりのホラー系画面があるだけで、映画の2/3はサイコパス系、残り1/3はわるふざけ、です。
 主人公のウォレス(だからセイウチwalrus)のクズっぷりもつきぬけているし、サイコパスのハワードの身の上、虐待の過去から始まるちょっと長い説明シーン(長いけれど最後になってこれが重要なキーワードばかりだということになる)から常軌を逸したシリアルキラーっぷりもなかなかすごい。とはいえ、彼がシリアルキラーである、ということは後半にならないとわからないのだけれど。「人間は、そもそもセイウチなのではないかね?」という言葉も、画面ででてきた最初は「何言ってんだこいつ?」なのだけれど、彼がセイウチに執着する理由がわかってくるとそれもまた物悲しい必然にかわってしまう。
 不思議な作品です。いや、要素要素が全部おばかだし、そもそもの着想もアホなものなのに、それがケビン・スミスが脚本をすすめていったことである種哲学や宗教にも近しくなった哀しい物語に変貌してしまう。
 この物語には柱が三本あります。ひとつは主人公とその相棒(ハーレイ)と恋人側のもの。これは、下品なネタが身上のPodcast野郎の物語で、エスカレートしたさらなる品のないネタを探しにカナダに足を踏み入れます。
 もうひとつは、子供の頃に虐待を受けていたハワード。彼は船乗りになり、難破してセイウチに助けられます。そこで、セイウチと心を通わせ人生初、かつ唯一の親友として心の拠り所を得ます。でも、あまりの空腹にその友人となったセイウチを殺して食べてしまう。ペニスボーンも持ってきてしまう(たぶん、「友人」ではなく「恋人」だったのでしょう)。その直後に救出され、以後、自分が失ったセイウチをなんとか蘇らせ、贖罪しようとするわけです。そこで、本物のセイウチではなく、人間を外科的にセイウチ化するようになるところがミソ。着込むことでセイウチになれる「セイウチスーツ」を人皮で作成し、自分がつくったセイウチ人間と一緒に過ごす時間で助けてくれたセイウチに思いをはせ、そして「セイウチファイト」をするのです。オス対オスの一騎打ちのはずだけれど、結局のところセイウチ人間はセイウチではないのでハワードはセイウチ人間を撃ち殺し、仕方がないので次のセイウチ人間をまた作り始める。そうやって何人もセイウチ人間を生み出したことでシリアルキラーとなります。
 三つ目が、この話を重くしすぎないためのフロート役、アル中探偵(ジョニデの人)。この人が警察時代にシリアルキラーに気がつき、ずっと個人的に追跡してきた、というパートが合流してからは物語はダイナミックに動きます。小ネタも大量にはさみつつ、このアル中のおかげで話は重くなりすぎず、そこそこのブラックコメデイとしての着地に成功するのです。
 ・心に傷を負い、セイウチへのけじめをつけるためにシリアルキラーになったハワード、・下品で調子よく、他人の不幸を笑い飛ばすことで生活している主人公たち、どちらも社会からのはみ出しものなのだけれど、観客にとってはだんだん前者のほうが重くて大きな存在になっていき、後半はウォレスに対する感情移入は希薄になります。ハワードはウォレスとのセイウチファイトに破れ、自分の死に場所を得て、人でなしのウォレスはまさしく「人じゃないセイウチ人間」になったまま余生をすごす。元恋人が声をかけてもでてこないけれど、生の鯖を投げ入れるとすぐにとびだしてきてむさぼります。そばには、ハワードが乗っていた船の浮き輪と、ウォレスがずってかかえていたドリンクカップ。ウォレスはそこで涙をながすけれど、それは果たして人としての涙なのか、セイウチとしての生理現象なのか。

 ジョニデの親子共演、というシーンは娘さんが店員としてでてきます。アメ公サイテー、クチヒゲ野郎だ、と(笑)。この映画でもやっぱり口髭はだめなんですなあ。