Anything Goes (again) ...

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TED2(ふぉーすは出ないんだよ)

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 前作の評判のおかげか、「わきまえずに」見にくる客は減った感じ。前は、「かわいいクマを見にきたのにひどい」とかなんとかいう理不尽な文句があったから。とはいえ、今回は前作に比べると下ネタは減ってます。1のほうが酷かった、というか「アリゾナより愛を込めて」が酷かった(笑)からこれくらいではなんとも思わない、というか。「文化の成熟度」というのはこういうくだらないネタを楽しむ余裕があるかどうかに現れる、的なことを言いたくなりますが、まあこの程度で下品だのくだらないなどと憤激するようなオカタはそもそも「映画」という文化の広さをご存じないので人生まだまだ勉強が必要ですね、と。
 シモ系がおとなしくなったかわりに、映画作品へのオマージュやコミコン会場でのお遊び、有名俳優使った悪ふざけが倍増しています。リーアム・ニーソンなんか、絶対このまえお尻にデイジーさしたつながりだし、アマンダ・セイフライドの「目をいぢる」あたりもセス監督の恒例になってきたというかなんというか。前回同様ナレーションはパトリック・スチュワートだし、ラストのほうで見せ場を持っていくのはD型エンタープライズだし。あと、葉っぱネタも。なにせ「群れで動いている」し「詩人つれてこなきゃ」なので。
 とりあえず、「道徳的なお話」とか「教訓めいた物語」とかを映画にもとめちゃったりするタイプの人はこの作品に向いてません。それは確か。ワンシーンまるまる過去の映画のオマージュ、というのもいくつも紛れ込んでいます。映画リテラシーがないと楽しめる部分が激減するのもたしか。
 とめどなく間断なくつづいていく悪ふざけの小ネタの中で、TEDは人か物か、という本筋がすすんでいきます。アメリカの歴史を持ち出すまでもなく、これは奴隷制度との戦いの現代版。朝番組のZIPで紹介していた某弁護士は「動物に人権を認めさせる裁判」という勝手な解釈にのっかって「例がない」とか言っていたけれど、彼はこの作品のことを全く下調べしていないことがもろばれでした。映画の中でさえ「過去の裁判の例」をリストアップしているのにね。宣伝めかしてわざわざ事務所の名前だしてコメントするなら(事務所名、申し訳ないけれど覚えてしまいました)せめてwikipedia程度は予習してからコメントすればいいのに。その時間がなかったのというのなら、少なくとも日本テレビから最低限の資料は見せてもらうべきだろうに。他の職業ならともかく人権のプロであるべき「法律家」がこの内容にコミットしないというのはアウトです。
 ちなみに、前半の裁判(敗訴する)でのキーワード、ハスブロでのテディベアの出荷状態、体内に仕込んである電気音声回路(よく鳴ったなあ。まめに電池交換しているのね)、等で敏腕弁護士が陪審員に対して「TEDがモノであることを科学的論理的に立証」していきます。この物言いは、まさに奴隷制度を容認する立場がとった手法と一緒で、骨相学等を援用して当時も「奴隷は科学的論理的にみて人間ではないので所有物である」と立論したのでした。「ジャンゴ」のディカプリオが奴隷の頭蓋骨を手にしてその「内側の突起」を示して「科学的に」説明したように。
 初陣の弁護士としては雄弁すぎる感じのアマンダ・セイフライドが勝てなかったのは、「気分だけ科学的になりたい」大衆感情に負けたのです。今の日本で言えば、「福島には人は住めない」とか「原発は火力よりも危険」とかの類。あるいは、当時のアメリカの風潮を反映するための展開なので最初から負けは確定していた、ともいえる。
 もちろんそれは理屈ではなく感傷の問題なので、TEDが陪審(と人権派弁護士)の心を動かすことができればそれで全ては解決してしまいます。いうならば、「わかりやすいアメリカの近代化の歴史」なのです。しかし、「アリゾナ」といいこれといい、セス・マクファーレン監督の敵は「アメリカの文化と歴史そのもの」なのかもしれないな。アメリカという「自由の国」がその自由さゆえに窮屈な場合がある、たとえばヒトを所有物扱いする自由とか。そういう「自由」のズレを笑いのめしたいのかも。
 あと、ハスブロのオフィスにはちゃんとバトルシップの箱も飾ってあってよしよし、と。「マテルで働くものだ」とかのセリフ、吹き替えだとどうなっているのかね。「タカラとバンダイ」とかになっていれば面白いけど。
 で、三作目はちびTEDがでてくる話になるのかどうか。
 そうそう、前作同様字幕でないといろいろと楽しめません。あと、Google先生はこの作品の影の主役です(笑)。