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ギャラクシー街道(宇宙でダメなやつはどこにいってもだめ。つまり、だめ)

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 つくりはすごく丁寧です。昭和の喫茶店風のインテリアの数々、脚本にしかけられたささいな伏線とその回収、そういう「うまさ」はさすがです。マンモ隊員が隊長の残したコーヒーを「これでいい」というシーンとか、細部まで本当にきっちりとねってある職人技。「私は医者だ」から「実は歯医者だ」というハングオーバーオマージュ(?)とかもあります。ホテルのかわりにつぶれそうな街道沿いのハンバーガーショッブという舞台で、「宇宙人だから」という制限解除で展開する群像劇。三谷監督にはめずらしい恋愛パートあり、「男性キャラは全員自分の分身・願望」という三谷監督の言葉。その結果、そこにうまれたものはあたかも遠藤憲一が産んだ八つ子のようにいびつなちょっと評価に困る「作品」でした。
 一番まずいのは監督の子供っぽさがだだもれになってしまったところ、でしょうか。「宇宙だから」「SFだから」というエクスキューズは自由と同時に無軌道な暴走をもたらしました。本来ならば、「宇宙だから」「SFだから」こそ、おさえなくてはならない基本があるのに、「ぼくのそうぞうしたおもしろいえすえふ」で思考が止まっちゃっています。自由律なトンデモドタバタを書きたければ「現代劇」しかないでしょうに… でも、この作品の最大のトラブルは主役の香取慎吾の役に対する感情移入ができない、これにつきます。なにこの典型的な思い込みの激しい会話のできない差別的なクズ男子?「監督の分身・願望」である男性キャラクター」筆頭がこれなので、あとは推して知るべし。どうもこうもありません。
 小道具はなかなか良い味わいなのです。喫茶店のテーブルにあったレバー式の星占い、役人さんが使っているのはPCではなくワープロ、といった具合。これっぽっちも宇宙じゃない。小学生男子の思い込みと頑固さと汚らしさを大の大人が無責任にやりっぱなしにしてみましたよ、という舞台としては、昭和臭のする小道具は「あたり」でしょう。
 この作品、ラストで大きく化ける可能性は十分あったので最後まで期待してみていたのですよねえ。つまり、運用中に意思を持つようになった「ギャラクシー街道」そのものの物語へのコミットと、それにあわせてただの群像でしかなかった登場人物たちの組み合わせと繋がりによるカタルシス、が、あるはず、と。はい、そんなものはなにもありませんでした。なーんにもなし。そのかわりに西川貴教がまるまる歌い上げるわけです。え?これもしかしてエンドシークエンスなの?という衝撃。だとしたら、二時間は長すぎますよ。せいぜい70分、できれば50分くらいの小品とすべきでした。

 さて、同様の「品のない差別意識あふれる悪ノリ」で構成されていたTed2は楽しめたのに、どうして「ギャラクシー街道」は楽しめなかったのか。どっちもやってることは大概ですよ、並べると。でも違う。それは、登場人物の自覚の座標です。Ted2では、全員「自分がクズであること」を大きな前提にした上で、クズなりにがんばってみたり、クズにも許せないことがあったりするのだけれど、ギャラクシー街道でのクズどもは全員「自分はまとも自分は正しい」と思い込んでいる。それは香取演じる主人公に最も端的に示されていますが残りのキャラも大同小異。つまり、「はなもちならない」のです。決して、「下ネタだからだめ」なのでもなければ「くだらないからだめ」なのでもなく、「キャラクターにほんのひとかけらほどの気持ちも移入できない」、のが致命的。もちろん、これはこれで、「わかるわかる、香取の気持ちチョーわかるー」という「タイプ」の人はいるのだろうし、監督は「そういう人」を相手にして商売ができると思ったのでしょうけれど、ねえ。
 ひとつだけ、もしかすると、と思うのはジブリの宮崎氏が長編映画から引退したこと。三谷監督は露骨に「対宮崎映画(の売り上げ)」を意識していたので、対抗する相手がいなくなってしまってどこかが緩んだのかもしれません。
 で、三谷監督、このとおり「宇宙でだめ」だったわけですが、このまま「どこにいってもだめ」なんでしょうか?
 「有頂天ホテル」とかこれまでの作品にはSFマインドを感じていたのになあ。

 簡単にまとめると「これを普通に面白がる人はいるかもしれないけれど、そういう人とは決してお近づきになりたくないだろうな」という感じの一本でした。

 映画前のフジのミニオンボブ君がかわいかったことでずいぶん得をしている映画です。