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ヤマト2202 第4章 天命編 (ボクは、ちくわの中身を覗いてしまった)

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 そもそも、パンフレットの発売遅れ、という「イベント」からスタートした今回の第4章(なので、初日にいくのはやめました)、前作の出来が出来なので最初から期待はしていませんでした。案の定、冒頭はまたもや2199から振り返るし、その中で「あぁー、前作はこんなだったんだよなあ…」という諦観の用意もできます。で、
 崩壊しています。いろいろと崩れているのですが、今回顕著なのは・脚本(崩壊している上に陳腐)、・演出(たぶん脚本にひきずられている)、・作画(大画面での上映が前提のはずなのに…)、そして・科学考証(もう、真田さんがそれっぽい理系の単語さえいい加減に口走って入ればいい、というレベルが固定されてしまいました。この船に科学士官はいないのか…)、という感じ。ゴーランド親子のお涙ちょーだいシーンなんか、「ガトランティスにだって心はうんぬん」みたいなわざとらしい演出なのですが、そこの鍵となる「ヤマトはあの大砲を撃てんのだ」なんてのは前回大帝がいったことそのまんまでしょうが。ほんと、環境にやさしいんだから。
 前章のラストでひっぱって、今回出番ですよ!とばかりに観客が期待を誘導されていたデスラー総統もたいしてでてきません。しかも、こんどはまたもやその総統が5章への引き、ときたもんです。
 テレサに至っては神秘性のかけらもなく、真田さんがなにやら「今風のそれっぽいこと」を言うのにのっかって陳腐なセリフをはきだすだけ。これ、知ってます。なくなった先代西崎プロデューサーお得意の「愛」、それも「宇宙愛」です。

 つまり、一言で言うと実に見事に「いつもどおり」でした。まあ、昭和のヤマトもシリーズを重ねるごとにこうなっていってあの「復活編」まで至たったのだし、それが章立てで展開するのだからどんどんこうなっていくのもむべなるかな。そういう意味では「正しいヤマト」をたぶん見たのだと思います。福井氏がパンフレットで吐露しているように、2202はシン・ゴジラのような「震災文学」です。「あの出来事」と「そこからの復興」といいさえすれば社会的な共有意識にただのりできるよ!、という、あえて言ってしまえば創作とは対極にあるあさましさが物語の背骨をつくっています。フィクションや物語や小道具や設定でくるみすらしないそれは、「そういうヒトになら楽しめる」のでしょうね、としか。

 まあ、そんなものです。5章の前売りは買いませんでしたが、たぶん劇場でみるとは思います。ヤマトのファンは「こういうのも含めて」ヤマトという作品世界である、という達観とともにありますから。誰かが「先に惚れた弱み」と言っていましたが、言い得て妙です。キーマンの言葉を借りるなら「イスカンダルへの旅をしたものの呪縛」みたいなやつ。

 第1章の時にも書きましたが、この2202、最後の7章のラスト回まで「ヤマトは地球に留まったまま」、地球連邦の新造艦でイスカンダル経験クルーたちがわちゃわちゃとなんかやって、最後の最後にようやくヤマトがでてくる、とかにしておけばまだもう少しよかったのではないかしら。そうすると副監督が出したいであろうアレとかソレとかも出せるだろうし。