Anything Goes (again) ...

Yahooブログから移りました

ゴジラ 星を喰う者(普通に終わった)

 一作目の怪獣惑星が、庵野版でつきつけられた酷い消化不良と不満をふきとばしてくれたのが良い思い出です。今回は、三部作をきれいにまとめるための物語だったので、主役が怪獣ではなくエクシフ、(というか桜井)にシフトしてしまったのが惜しい。ギドラについても、観測行為をヒントにすえたり、いろいろとSFガジェットを使ってがんばってます。どうでもいいけどクラークは科学者でありませんよ、とかいいながら。ハルオはなんか悟ったような顔をしながら散っていきましたが、やることはちゃんとやって子孫は残したみたいだし、それでもほうっておけば文明は発達してまたしてもゴジラは活動するだろうし、なによりもそろそろ次のエクシフが地球を見守りに来る頃合いでしょう。物語は、単純に繰り返されるだけなのです。主人公が無責任なあまちゃん、とというのは新しい、のか?

1、2作目と比べると東宝作品への目配せが大幅に減量されているのも残念なところ。前回のゴラスみたいな展開、楽しみにしていたのに。モスラだって卵の中からでてこないし。そもそも、ギドラがゴジラを目によって「認識」できていたのであれば、ゴジラもその「目」から覗き返せたはずではないの、とか、いろいろと思うところはあります。

 さて、ラストのハルオの特攻は、スタッフによるとオキシジェンデストロイヤーのオマージュとのことですが、単にハルオというキャラクターが考えなしである、という意味しか持っていません。ヴァルチャーとユーコをなんとかしないと文明がまた発達してもとのもくあみ、という発想なのだろうけれど、そんなことしなくともフツアには文化があるわけでほっとけばどのみち二の舞です。さらにいえば、ギドラの巫女として宇宙に散ったエクシフの神官は、「フツアの地球」も観察対象にして介入してくることは想像にかたくないわけで、そのときにメトフィエスのことをちゃんと伝えられるハルオがいなくなってどうする、と。そもそも、おまえ双子のおなかおおきくしといてなにやってんの、と。ナノマシンをなんとかしたければヴァルチャーを自動操縦にしてゴジラの前にとばせばいいだけです。

 もっとも、少しだけ深読みをして「あのギドラが最後の一匹とは思えない」というのであれば確かに初代オマージュ、かなあ。ゴジラじゃないけど。

この虚淵ゴジラシリーズ、一作目が、例の庵野ゴジラのせいで生じた「怪獣映画を見たい」気持ちにがっちりよせてくれた存在感が大きかったので、後続への期待がたかまりすぎたところはあります。でも、さすがにこのヒモみたいなぎどらはなあ。(ソフビででているのもみてしまってなおさら)すでに、「怪獣はハリウッドに限る」時代になってしまったのかしら、と悲しみを感じています。