Anything Goes (again) ...

Yahooブログから移りました

「リリーのすべて」(神 我をつくり、医師 我を癒す)

イメージ 1

 「最近はやりの」(といっていいのかどうか)性同一系の一本。アカデミー賞作品となりました。話題の一つは、エディ・レッドメインの演技なのだけれど、これは確かに素晴らしかった。学び、気持ちが整理されるにつれてどんどん加速度的に乙女になっていく感じは圧巻。実は、トム・フーパー監督の作品は初見(レミゼラブルあたりもあまりにも話題になったので結局いかなかった)だったのだけれど、この人、風景の切り取り方が絶妙にうまい。ただ、このテーマを一本の映画にするにあたって相当に悩んだ形跡が随所にみられます。実際のストーリーをベースに、とはいうけれど、現実のアイナーはもっと何度も手術を受け、もっと長生きしているわけで、「そういう物語にする」ための儚さの演出は鼻につかないぎりぎりのところで踏みとどまったバランスの上に成り立っているし、内容の重さにひきずられないようにセリフやシチュエーションにいろいろと遊びの要素もうめこまれている。サッカーパンチ以来のロボトミーネタ、「Radiation is Miracle!」、そして、パレのセリフのもじりである「神様が自分を女としてつくった。そして医者がその体を女性としてなおしてくれる」まで。とくに最後のネタは意味深なキーワードであるだけでなく、医療の基底にあるはずのパレの言葉(これ自体は当時の宗教的背景がいわしめたという説もあるけれど)を逆転させている、というところがポイント。ちなみに映画ではインターセックスを匂わせる描写もあるけれどそこはあまり深く掘り下げてはいません。実際にはアイナーの体内からは未発達の卵巣が見つかっているとのことなのだけれど尺が調節できないとふんだのかもしれない。

 画家夫婦は、冒頭では夫の方が高く評価されている。夫の風景画は「子供の頃の性の記憶」という原風景だったので、自らが内面の女性を発散させ始めることでその「記憶」にしがみつく必要がなくなっていく。その結果、夫は「描くものがなくなる」。逆に妻は、技術はよいがモチーフに難あり(売れるモチーフではない)ことで評価が今ひとつだったのが、「内面の性を解放した夫」を描くことで「売れるモチーフ」を手に入れて画家として成功していく。面白いのは「二人とも画家」「わたしとアイナーは似ている」などといいながら、絵描きとしてのスタンスが正反対だというところです。言い換えれば、画家としてのアイナーは外科処置なんかしなくても、リリーとして表出した時点ですでに「死んで」います。「絵を描く理由が亡くなった」のだから。この映画の後半部分、手術に始まるクライマックス全体が「すでに亡くなったアイナー」の葬式イベントなのです。そもそも、実話サイドでは子宮移植の拒絶反応でリリィが亡くなった時はすでに離婚の後でゲルダは再婚してデンマークに戻っていたわけで、そこからのラストシーン(凧のかわりにスカーフが沼へ向かう)も映画ならではのサービスといえるし(しかし、卵巣の移植までしていたとは)。

 ちなみに「卵巣摘出」という行為は当時の精神外科の「治療」の一つで、ロボトミー等と並んで行われていたものです。おそらくはそうしたところから得た卵巣がアイナーには埋め込まれたのでしょう。これもまた女性性の抑圧をテーマとした一つの物語。

 さて。この手の話題はいつもなにかがもやもやするのです。
 同性愛という現象自体は別にヒト固有のものではないのでそれは不自然では必ずしもないのだけれど、トランスジェンダーな問題となると複雑。キャロルはレズビアンの物語だったのに対して、こちらは内面の性をとりもどすための物語、いわば、リボンの騎士なわけです。一つ目の問題は、こういうテーマがLGBT系列で言の端に上がり、作品がいろいろつくられる現代、というのはそれだけ社会の認識が多様性に対応して個人の権利が大切に思われている時代、という言い方もできる、ということ。と、同時にそれが商業的に成功する社会、というのは結局はトランスであれシスであれジェンダーに拘泥する価値観が中心にある社会、でもあるということ。
もうひとつ。それは先のキングオブプリズムが作品の物語とは別の文脈でいわば「性的に消費」されることで大ブレイクしているように、同性愛を彷彿とさせるシチュエーションを「想起する・させる」ことが文化サービスとして確立する時代、でもあり、それは同時にやはり「ジェンダー束縛」のウェイトの重さでもあるわけです。さっきから「ジェンダー」と言ってはいるけれど、この映画のシチェエーションでは「未成熟な卵巣」の存在から「ジェンダー性役割)」ではなく「セックス(性別)」の問題である、といわなければならない(ホルマリン標本とかが残っていれば確認できることもあるだろうけれど)のですが。
 ただ、これについてはアメリカが現在トランスジェンダーな人たちへの対応で揺れている状況だから、そこにあわせていった、ということもありそう。「出生時の性別のトイレを使わないと罰金」とか、ジャニーズのコンサートにくる女性陣の相当数や、大阪のオバチャンはみんな罰金刑ですか、的な無理もあるようで。この映画の中でジェンダー問題にかかわるのはゲルダの発言「私には夫が必要」「せめて努力はして」です。これこそが社会的に要求される性役割そのもの。
 なので、この「リリーのすべて」を「トランスジェンダー問題」に絡めて話題にあげるむきには反対です。というか、それって映画も背景の小説や実話もトランスジェンダー問題もちゃんと踏まえていないことになりますよ、と。まあ、日本でも最近ではトランスジェンダーな人たちの存在が「見える」ようになってきて、たとえば学校のトイレや更衣室等をどうするか、などの対応が必要になりつつある以上、そういう方向で話題になるのは仕方がないのかもしれないけれど、それならキャロルだってもう少しそういうところから話題になってもいい気がするんだよなあ…

 この手の問題がもやもやするのは、輻輳的にいろいろなものが混在するから。生物学的な背景のあるトランスセックスな問題(アイナーがそう)、幼少からの社会役割に精神が合致せず齟齬をきたすトランスジェンダーな問題。この二つはシリアスなもの。その他に、単純な性癖の問題、倒錯好きの問題、ファッションとして消費しようとする立場の問題、などなどが複雑にまざりあってしまって混沌としてくる。ビジュアルとしてホモセクシュアルな男性のイメージを想起して消費しようとする女性たちがいわば「ガチなゲイ」を前にした時にどういう反応をするのか、とかは興味はあるけれど、たぶんろくな結果にはならないと思うし。
 リリーのすべて、キャロル、スポットライト-世紀のスクープ、と並べてみても(イミテーション・ゲームもいれていい)、世界的にこのテーマが注目されているのはたしかでしょう。で、あれば、乙女チックなラストに翻案せずにもっとドキュメンタリーによせて実話の再現をしたバージョンも見てみたい、と思ったり。ただ、その時はエディ・レッドメインだと体格が良すぎてしまってたぶんだめですね。
 
 空襲前のドレスデンの街並みも、復元された今だから映像にできるのだな、というのは映画とは別の感慨。だけど、風景へのこだわりがこういうところにもでているのだろうと思う。ドレスデンのシーンだけでも涙がでます。

 不勉強ながら「トランスジェンダー」のトランス、が、cis-transのトランスである、ということは今回初めて気がつきました。

 あと、アカデミー賞がエディではなく、アリシア・ヴィキャンデルであった、というのは素直にそのまま納得。