Anything Goes (again) ...

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ニホンジンとコミュニケーション

 NIFTYパソコン通信が消滅した。
 個人契約のIDとハンドルがむすびついた掲示板文化というものが一端の節目を迎えたということか。
掲示板の文化は、確かにコミュニケーションの可能性を示しはしたが、結局は日本人の文化的未成熟さゆえにその「可能性」は日の目をみなかったのではないか、と最近考えている。
 パソコン通信の場合、コミュニケーション対象としての「匿名性」は形だけのもので、常にIDには「パソコン通信会社」と契約をした特定個人が対応していた。すなわち、その世界においては「不特定の匿名」というものは単に「自分の知り合いではない」という程度のことでしかなく、全員が事務局に管理登録されているという意味でインターネットにおける匿名とはまったく内容の違ったものだったのだが、それでも掲示板のやりとりで「匿名は無責任だから許さない」というナイーブな風潮は根強かったと記憶している。「ハンドル禁止」あるいは「ハンドルを使用する場合は実名を明らかにして」というローカルルール(仲間うちのきまりごとのようなもの)を掲げる掲示板もあったが、もちろん、ほんの少し考えてみさえすればそれがナンセンスであることは明白であった。そもそも、「実名を明らかに」したところで、一介の会員にはそれがそのIDと対応した「本当の名前」かどうかなど確認できるはずもなく、ただ単に「実名っぽいハンドル」であることにしかならない。つまるところ、「匿名キライ」「実名がいい」という主張は、「自分が見たときに実名っぽくみえる呼び名であれば安心できる」という独善的主張でしかないということであった。「悪魔と神さん」はだめで「藤崎治郎さん」ならオッケー(笑)。コミュニケーションにおいて問題になるのは「呼び名」ではなく「発言の内容」であるべきなのに、その点は不問である。逆に「発言の内容」の一点をもって意見交換や議論をしようというスタンスは毛嫌いされた。日本人にとっては「議論イコール喧嘩」であって、なんとなくたゆたうように仲間内の隠語の交換をしたいだけの人たちにとって、議論や討論はまったくもって唾棄すべき敵であったのだ。
 もちろん、その空間が「パソコン通信」であったが故に、そこにおける匿名性は「パソコン通信事務局」に管理されたかりそめのものでしかなく、最終的には「仲間の輪を乱す会員」については、多数が「事務局に掛け合って」IDの停止、剥奪等を要求する、というファッショ的流れもでてきていた。中には「自分は事務局とコネがあるんだ」ということを御旗として、参加者の言動をコントロールしようとするところもでできたほどだ。「事務局の力で圧政が可能」ということ自体、その空間に「匿名性などなかった」ことの証左なのだが、そこまで考えはしなかったらしい。この件では某裁判にかかわらせていただいたりもしたっけか。電車にのるたびにお嬢さんの声を聞くのは不思議な感覚だけど。
 さて、いまさら2chをひきあいにだすまでもなく、それでもみんなは「掲示板が好き」なのだ。好きなのだけれど、個人を特定できる担保のない、「発言内容のみによるやりとり」はあいかわらず怖くてたまらないのだ。ひどいこといわれても、まあそのあとで一杯のみにいけばなんとなくまるくおさまるじゃん、というばかばかしいごまかしがないとやってられないのだ。
 Niftyはなくなってしまったけれど、かわりにぐんぐんのびてきたものがある。それが、ソーシャルネットワークと呼ばれているものだ、という話。もう、ここまでいえば充分という気もするが、馴れ合いによるごまかし社会がソーシャルネットワークだということになる。つまり、実社会のコミュニケーションがしんどいので、もっと形骸化した簡単なやりとりで「つながった気分」にひたれるネットへ→実はコミュニケーション嫌い。匿名怖い。内容よりもお作法が大事。海外旅行でも日本食しか食べない観光客。消極性は無責任な自己顕示欲による暴力の一形態。と、いうこと。
 日本人は実はコミュニケーションが嫌いなのだ。と、いうよりもコミュニケーションそのものが怖いのだろう。目をあわせると怖がる、逆に、相手の目を「みない文化」だ。だから、相手が「言った内容」ではなく「相手はそう言いながらこんなことを考えているに違いない」という妄想の方を大事にする。結果として、「こんなことを考えているにちがいない」という妄想が機能しないネットの掲示板では会話は成立し難いということになる。一方的妄想によるでっちあげの文脈がなければ他者と対峙することすらできないのは、精神と知能の貧困であろうに。
 でも、ソーシャルネットワークのように、「一見さんおことわり」で、「メンバーによる紹介制(ということになっている)」の世界だと、「知り合い」が中心になるので、その知り合いに対して「自分が常日頃抱いている(きめつけている)こいつはこんなことを考えているに決まっているという妄想」をバリバリ100%全開にして安心できるというわけだ。
 コミュニケーションが嫌いだから、逆にソーシャルネットワークがはやる。実名(もっとも「結局は実名ではなく実名っぽいペンネームを使っている人間が多いという事実が、「知り合いにしか来てほしくないけれど自分は名前をだしたくない」ということでまたまた興味深いが)と紹介による安心。それによって「相手の正体」は担保されているはずなのに、さらに不安でまた他人が気になるからアンケートをまわしつづける。これって要するに不幸の手紙のようなものだ。考えてみれば、不幸の手紙を断ち切ることのできない自我の弱さというものと、匿名を怖がるメンタリティとは同一のものだ。

 でも一部上場できちゃう。

 日本人はことほどさように「コミュニケーションが嫌いだ」という話でした。