Anything Goes (again) ...

Yahooブログから移りました

天元突破グレンラガン 紅蓮編(その3)

イメージ 1

 なぜかわからないけれど三回見るとスタンプカードがこんな具合になります。絶対計算おかしい。

 あいかわらず映画館は満員でした。公開からこれだけたっていまだに満員というのは、上映館が少ないからとはいえやはり快挙なのでは。こうなるとまさかの三部作にして、どんどんテレビではできなかったあんなことやこんなことをやって欲しい、と思うわけです。

 KOTOBUKIYAのグラパールがそろそろ発売ですが、それよりもダイガン四種類(合体可能)とかを出さないと。まごまごしているとまた海洋堂にさきにやられたりするのでは…

 さて。

 あとがきが新しい、と聞いてあわてて注文した「天の光はすべて星」が手元に届いた。フレドリック・ブラウンはどの作品も大好きだけれど、このロマンティックでリアルな一品は別格だった。そもそもこのタイトルがグレンラガンの第一話と最終話にでてきたのがうれしかった、ということもある。そして、ここにある中島かずき氏の文章を読んですごく納得できたことも。

 巷でグレンラガンが紹介されるキーワードに「ロボットアニメ」という一言がある。なんという嘘っぱち。グレンラガンは正統SFアニメではあるけれど、決して「ロボットアニメ」ではない。数々のガンメンのデザインは魅力的だけれど「ロボ・メカ」としては描かれていない。ましてや主役のグレンラガン自体、ロボットアニメの主役機として考えると実に簡単な(あえていえばいいかげんな)デザインになっている。

 これは、ドリルというキーワードを「螺旋」にこじつける際にどこまでも大きな法螺をふくためのよりしろとしてロボットが使われただけであって、決して作品分類として「ロボットアニメ」ではないからだ。中島かずき氏がつむぎだした数々のSFガジェットと、その巧妙な(または狡猾な)活用についてはここでは深入りしないが、「螺旋力」という概念をさらにぶっとばして「ヒトの形が一番効果的」とうそぶき「だからヒト型ロボになる」という飛躍の生み出すマトリョーシカ達。まったく、どこまでぶっとんだ話をつくれるか、という限界に挑んでいるかのようで心地よくSFである。

 映画版をみていても、カミナのギガドリルブレイクとシモンのそれとでは敵を固定するブーメランの本数が桁違いで、シモンの場合は最近の映画のアイスラッガーばりに増殖している。こういう螺旋力の扱いが心地よい。

#さらに深読みすれば、グレンがエンキドゥにおさえつけられている間にビャコウがとどめをさしにきたシチュエーションをこの技は「お返し」しているようにも見える。

 「SF」という言葉は、SF大会がニュースになるような現代ですらすでに死語なのでは、と思う。昔、あんなに隠れていたSFファンも、いまでは石の裏をさがしても杳として見つからない。そういう自分だって、SFの新刊を探して読む楽しみを忘れて久しい。(中島かずき氏が「一度リタイアしたロートルSFファン」を自称しているように、自分もそんな感じだ)

 さらにいえば、中学生から高校生のころ、小遣いと目録と、書店の棚をにらみながら、「タイトルと表紙」だけで買うSFを決め、乱読していた過去も中島氏の昔語りときれいに重なり合う。作り手も読者もいるのに、じゃあ「SF」だけはどこかに行ってしまったのだろうか。

 映画の世界でもSFぽいものは結構ある。ディック原作のペイチェックやNextなんかはおしゃれにSFしていた。でも、と思うのだ。軌道エレベーターを用意してがんばった00だって、ガンダムではあってもSFにはなれなかった。と、いうか、過去のガンダムでSFを体現できていたのはたぶんGとターンエーくらいしかない。

 それが、自分がグレンラガンにここまではまってしまった理由の一つなんだろう、と思う。飢えていたものがここには少しだけ見つけられたのだ、と。バリントン・ベイリーが好き、とのこと。大納得です。

 で、あればこそ、映画の続きがどんなワイドスクリーン・バロックになっていくのか、楽しみでしかたがない。

 でも、小説の四巻もお忘れなきよう、中島かずきさんへ。