Anything Goes (again) ...

Yahooブログから移りました

こちらの方がバランスが良いと思う (名古屋大 浜口学長の「仕分け」批判)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091126-00000004-mai-soci

><事業仕分け>名大学長「日本は死ぬ」…科学・学術予算削減
>11月26日2時4分配信 毎日新聞
> 政府の行政刷新会議事業仕分けで科学技術・学術関係の予算削減が相次いでいることについて、名古屋大学の浜口道成学長は
>25日の定例記者会見で、「明確な国家戦略もなく、効率というキーワードだけで一律にカットしている。赤字が解消しても日本
>は死んでしまう」と痛烈に批判した。
>
> 浜口学長は、特に若手研究者の育成や女性研究者支援に関する予算の縮減が求められたことに、「日本の資源は人材しかない。
>次世代の産業開発を生み出す研究者を切ろうというのは、日本が生きる唯一の道を閉ざしているとしか思えない」と述べた。
>「現場を知らない人たちが短期的な視点でマイナス要因だけ見て決めている」と、仕分けの手法についても疑問を投げかけた。【高橋恵子

 野依理研理事長についてのエントリーにコメントいただきましてありがとうございます。

 「仕分け」そのものが乱暴なものだ、ということについては異論ありませんが、仕分けに反論するにはそれなりの「説得力」が必要だろう、と考えます。「すごい科学」のためならば予算当然、というのは社会に余裕がある時のものであり、残念ながら今の日本では切り分けるパイのサイズが非常にきびしい。「仕分け」にしても拙速は論外だけれど、だからといって検討に時間がかかると予算が組み立てられない。という背反の状況にあるわけです。
 そんななかで、ノーペル賞受賞者に「科学立国」を盾とした反論をさせる、というのはマスコミ的には大衆に「わかりやすい」展開だからまだまだやるのだとは思いますが、それは同時に「大衆は権威を鵜呑みにするから扱いがカンタン」という慢心によるものでもある、という現実を忘れてはいけないと思います。

 浜口学長のこの批判は、かっこいい科学の話ではありませんし、「世界一になろう」というものでもありません。研究の現場を知らないと、なんのことかさっぱり、なのかもしれません。しかし、日本の若手研究者、女性研究者についての支援予算の減額を問題視している、という点できわめて「まっとう」な反論です。先のエントリーで触れたような科学研究現場での業績主義はそう簡単には変わらないでしょうから、そういう環境の中で研究者が育っていくための予算を減らすのは論外、という展開です。それこそ、国外への頭脳流出を減らすために必要なこと、の一つです。

 たとえばスパコンについては「それを開発すること自体」が研究である、というのは一つの立論です。でも、それを「使いたい」立場にしてみれば、その開発費よりも安く、そしてもっと能力の高いコンピューターを購入できるのであれば、それを歴史の法廷なんぞによって阻害されるのは論外、でしょう。ここで、「買う」のと「開発」との両方を余裕もって実現できるほどパイが大きいのであれば、両立させればすむ話ですが、それができないならばどこか効率の悪いところを切りましょう、という話にならざるをえません。論文の数が少ない研究者は研究所にいられなくなるように。

 そして、その両立ができないからこそ「仕分け」ということになってしまっているわけです。

 そもそも歴史をひもとけば「科学」というのはお金持ちの道楽でした。いや、漱石の話を出すまでもなく、学問自体が高等遊民のものであり、研究者になれるのは家が裕福な人間に限られる、という時代から、ようやく今のような時代にたどりついたわけです。科学が道楽ではなく社会の中に組み込まれたものであるならば、今度は科学者の理屈だけではやっていけなくなる、というのも仕方ありません。仕分けを批判するならば、時代に即した批判のスタイルがあるだろう、と思いますし、あるべきです。
 少なくともそれは、科学は社会において別格であるといった展開になるような時代錯誤なものではないはずあり、そういう意味で「歴史の法廷」という言葉を吐いてしまった野依氏については、選民意識的な科学者の奢りのようなものを感じ、激しい幻滅を覚えました。
 たとえば、最先端技術を内生しないで購入することが「売る国」への隷属を意味するならば、日本がいろいろな国に提供したり売ったりしている先端技術は相手国を「隷属」させていることになるのでしょうか。鳩山首相が環境についての我が国の科学技術を積極的に提供していく(そのことを貢献として認めさせる)、という話を出す時、我が国の科学技術で世界を「隷属させる」という話をしているのでしょうか。
 
 そもそも科学者が他国への「隷属」などという言葉をもちだすとは…なんたる視野の狭さ。八紘一宇の時代に逆戻りみたいです。

 コメントで指摘されているように、お膝元の理研でだっていろいろなことが起きています。研究員のアメリカからの実験材料持ち出しが問題になったのもほんの数年前のことです。別件になるので深入りはいませんが、業績主義が過度になると研究倫理に影響をきたすことが少なくありません。盗用やごまかしをしてでも業績をふやさないと次年度の予算や職が危ういから、ということもありますし、理研の場合はプロジェクトごとの裁量で購入可能な額が大きいために管理しきれずに、ということもあるようです。つまりは心の隙間です。で、あればこそ、本当は「研究者以外の視点から」、予算効率について検討しておく、ということは無意味ではありません。「専門家でないのだから無理」というのはそれこそ専門家の奢りであり、その場合は「素人にもわかるように説明する責任」が専門家にはあります。社会の予算の一部で研究するのであればそれは当然の責任です。
 運用の仕方についてはまだまだ改善すべき点の多い「仕分け」ですが、その存在そのものについていえば、正しく運用すれば非常に意味のあるものかもしれない、と思うわけです。

 本当なら、この「仕分け」の現場で声を発するべきなのは「科学者・研究者」ではなく、その仕事を社会に伝えていくポジションを担う人たちであるべきです。いわば、サイエンス・インタープリターの仕事の一環だと考えます。ただし、そのためにはインタープリターがただの科学者のお先棒担ぎではなく、自立して社会と科学との間で両方を見つめた立論ができないといけませんが…むずかしいでしょうかねえ…