Anything Goes (again) ...

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図書新聞3011号の関ひろ(この字をあえて使うあたりでもう…)野の評論が象徴的だ

 タイトルが「計算不可能な原発事故のリスク 原発はテクノロジーの名に値しない極端なアクロバットだ」。

 前にも指摘したように、「反」のひとたちほど、原発や科学技術を過大視しすぎるきらいがある。このケレンみたっぶりなタイトル(恥ずかしくなかったのかな、関氏は)の時点でもそれは十二分に雄弁だ。そもそも、それがなんであれ「事故」である以上そこのなにがしかは必ず「計算不可能」に決まっている。だからこそ、それは「事故」であり、「計画」ではないのだ。このタイトルは、テクノロジーとは人間がすべてをコントロールできるものである、という暗黙の前提によっているわけで、ああ、この人には科学や技術なんか呪術と同じ認識なんだな、とわかってしまう。
 関は冒頭で「ずっと恐れていたパニック映画のような悪夢が現実になってしまった」とあえぐ。氏が、ちゃんとした「パニック映画」を見た事がないであろうことはこの時点で容易に想像がつくけれどそれは本題ではない。ポイントは、「悪夢が現実に」、である。これ、いろいろなところで亜種を含めて目にするけれど、ようするに現実よりも脳内のファンタジーを優先した時にでてくるフレーズだ。被災地にとって、今回の震災も原発の事故もリアルであり、現実であり、いまとなっては日常である。それをふまえた上で生きていくのだ。こういった「煽り」によって非日常にもちこもうとするヤカラには必ず汚らしい裏の意図がある。先んじておくならば、関の文章では最後のくだりにそれは立ち現れる。
 関の「おおげさ」はまだまだ続く。「反原発派の一人として」今回の出来事を「許してしまった事は痛恨の極み」ときた。よもや事故を許諾する立場にいたとは(嘲笑)。冷静に読めばこれほど上からの目線で事故を語った言説を初めて見た、というべきか。とてつもなく巨大な自我をおもちらしい。ポイントはここから先のくだりである。「反原発」というタチバがなにをやってきたのかがだんだん見えてくる。たとえば「原発の新規建設を困難にする」、そして、どんなに管理してもだめなものはだめ、という教条主義的な拒絶。なるほど、こういった「反」の人たちに気を遣うとすれば、福島原発について、どれだけ地震津波の問題が指摘されても、新規に対策措置を講じてたとえば予備電源の位置を高台にうつす、とかはできようはずもなかったのだな、と理解できる。今回の原発事故は「人災」といわれているけれど、確かに、この評論を読む限りそれは正しい。関のいう「反原発」運動が対策のための新規設備設置を「困難に」してきた以上、東電に並んで「反原発」とかいう立場の人たちも責任の一端を担う覚悟が必要であろう。
 にもかかわらず、関は勢いあふれる筆致でさらになお原発批判をぶちあげる。関が「反」をきどりながらも不勉強なだけの人間である事はつぎのくだりで明白だ。
原発は、核反応という非ニュートン的現象をニュートン物理学の枠の技術で制御しようという原理的に矛盾し、始めから破綻している試み、テクノロジーの名に値しない極端なアクロバットなのである」
 ……(ためいき)。関が、自分が「何を書いているのか」理解できていることを祈ろう。いみじくも評論家を名乗る人間が、公表される紙面に書く文言ではないだろうに、と老婆心でおもってしまうけど。つづいて、「絶対安全神話」を日本にもたらした根源のような発言がくる。まあ、「無知蒙昧」であるからこそも過大な評価もしてしまうのでしょうけど、ねえ。
 「事故の規模は原子炉の気まぐれな反応や地形や風向等さまざまな偶然的要因に左右されるので、完全に安全な避難計画を作っておく事も原理的に不可能である」5万歩ゆずって「気まぐれな反応」には目をつぶってさしあげるとして、ここまではいい。「事故」とはそもそもそういうものだ。誰だって、通学路に抗てんかん薬を飲み忘れて運転されるクレーン車が突っ込んでくるなんていうことを予測することは「原理的に不可能」なのだから。足の小指をかどにぶつけるのと同様、原発の事故もそれが事故である以上予測不可能な側面があって当然だ。でも、関はそこにとどまらない。彼こそは科学技術教とでもいうべき100%安全神話の体現者である。話はこう続くのだ。
 「だからこそ原発は絶対に建設してはならないのだ」と。
 無知と蒙昧は言論の敵だ。安全100%主義のような間違った潔癖さはさらに敵だ。
 このあと、節電だのメンタルダメージだのに話が展開していく。ご想像のとおり、メンタルダメージとは、「あぶないかもしれないきけんかもしれない」というものだ。端的なことをいってしまえば、「お勉強なさい」という結論になるはずのこれらが、大衆は無知であることを大前提として原発事故の結論となっていく。これ自体ひどく差別的な言動なんですけどね。
 あげくのはてが、ベーシックインカムの話になるのだから評論家というのも気楽な稼業だと思わざるをえない。たぶん、「復興」という事象も限定的な視野でしか理解できないのだろう。「戦後」なんて忘れ果てた言葉なんでしょうね。
 後半はどんどんまとまりがなくなり言いたい事を言うだけになっていく。被災地と東京の原子力エリート(なんだそりゃ)とか、締めくくりの言葉が「我々はそろそろ…皇室と自衛隊について再考すべき時を迎えている」とか、すさまじい。それ言いたかっただけかよ、みたいな(苦笑)。

 結論。上杉隆はまだカワイイもんだ。「本当の煽り」というのはこういう芸風なのだな、と。図書新聞なんか読む人間少ないから実害は大してないのだろうけれど、活字になっちゃうんですねえこれが、というのが感想。