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バケモノの子(一言で言えば陳腐な売れ筋、かな。「売るしかけ」だけは満点です)

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 前作の「絵は綺麗だけれど物語の展開が雑」な記憶から事前に感じていた不安要素。「父親モノか?(また自分の身内ネタ?)」、渋谷の時間経過(3.11モノでないといいのだけれど)、「声優ゼロ?」ジブリ気取りなのかもしれないけれど確実にクオリティ落ちる、「脚本も監督本人」(ここはプロと協働すべきではないのかしら)、闇落ちした相手とバトルとかキービジュアルがクジラとかサマーウォーズの焼き直しかいな、とか。前作のおおかみこどもは、妄想世界の「強い母」と、よくしらない感じの「狼ってきっとこんな感じ?」が混じり合ってよく言えば独特の世界を、ありていに言えば、誰かにとってだけ好都合な幻想を、強烈に美しい画面につくりあげた代物でした(あれを見て、「子供を持ちたくない」と感じた女性もいました)が、さて。

 初日に観てきました。とりあえず不安要素については、「案の定親子・父親モノだった。そして案の定、またしてもリアリティは欠落」、「時間経過は3.11と無関係で一安心。ただ、あれだけの騒動で死者ゼロとかどんなお花畑?」、「声優ゼロ、ではなかったしキーパースンの何人かはそのおかげでとても良かったけれど、大半が「俳優枠」なので耳障りなことこの上ない。これ、「有名俳優がでてくれる」価値が作品としての声の演技の必要性を上回ってしまったのだと思う」、「脚本協力」として奥寺さんのクレジットあり。脚本のクレジットは監督独り。「協力」ってどの程度? その結果、脚本の出来はすさまじく荒くて雑。ほんの数秒画面に映したもので観客が伏線に気づくとおもっちゃいけません。それこそ、デジモン初代からずっと見てきた人ならわかるけれど。その結果、展開と演出も雑。「切り出してみせると感動的」ないいシーンがとてつもなく美しい絵で無造作に切り貼りされている感じ。なんというか、映画三本分くらいの作品から、昭和時代の総集編の要領で2時間の枠に適当に切りつないだような。あと、一郎彦が闇落ちしたあと渋谷で白鯨拾って「鯨」という文字が読めて、「クジラ」のイメージを知っていた、とかはさすがにだめでしょ。脚本が荒いという以前に設定が破綻している。赤ん坊の頃からバケモノ界でバケモノの子として成長した彼が漢字を読めるはずがない。
 監督的には、冒頭の母親の法事のシーンで遺品の「白鯨」をしまう画面をつくったのだから全ては説明完了、のはずだったのだろうな、とは思います(当時の蓮がその本を全く読めなかった以上、そこを元にしたイメージもこだわりも出るはずがない、のは指摘するだけヤボですかねえ)。その後のシーンで「父親は離婚させられていて母親の死もしらなかった」というモノローグもあることはある。つまり、あの場面でのやたらと空疎な「母親親族宗家の暴言」も、監督的には「とてもリアル」な親戚の言動に感じられていたのでしょう。(宗家の、というところに今度は監督が「歴史ある大家族」に感じている闇を感じるわけですけど、ねえ。上田の親戚と何かありました?)
 よその宗師を訪ねて歩く前半の旅シーンだって、監督としては最後の宗師決定試合にその訪ねた人たちを並べて座らせたことで伏線回収は完璧、というつもりだったのだろうな、とはおもいます。画面からは伝わらないけれど、要するに構成が雑すぎて。修行を含む子供時代の展開も、のきなみ「どこかで見たような」シーンの連続です。あまりにもあからさますぎて「あそこからもってきましたけどこれくらいいいよね」的な開き直りまで感じさせるレベル。
 「白鯨」についても通りいっぺんの上っ面のあらすじしか関わらない流れで、必然性もなにもない。さらにいってしまえば「白鯨についてもっと学びたい」のであれば大学受験めざすのではなく、その渋谷区の図書館が蔵書している専門書を片っぱしから読んでみればいいし、その上で著者の研究者に質問をする等を経てから「気になった研究者のいる大学に学びにいく」のでないとなんの意味もない。もっと勉強したい?じゃあ大学いこ?という程度の志望動機は資格系専門学校のCMのような浅はかで安っぽい代物です。ここも含めて、たぶんおおかみこどもの頃から(いや、サマーウォーズでも同様の)監督の私的な学歴コンプレックスと、教養とはあまり縁のない生活パターンとがダメなかたちで融合した末路のようなものを感じてしまいます(考えてみれば冒頭の「母方の親戚のセリフ」も似たようなコンプレックスに根ざす安っぽさでした)。
 
 「息子と父親」がテーマなのだから、育ての親の熊徹を胸に宿す形で手に入れた以上、あとは人間界の父親のところに帰るのは監督的には当然、でもあるのでしょう。でも、そんなのはどちらも監督の勝手な思い込みです。一番「バケモノの子」だったのが一朗彦だった、ということも含めて。「人間の心には闇があるがバケモノにはない」とか説明する割には前半の「強い奴が好き」な次郎丸のやってることはただのいじめだしそれは闇ではないのか、とか。人間界からまぎれこんだ主人公に嫌味を言い邪険に扱うバケモノたちは「闇」を本当に持たないのか、とか、どうみても慢心の塊のような猪王山の心に闇はないのかいな、とか。

 実は、いままでの細田作品に共通して徹底的に欠落している概念があります。それは「親子の心のつながり」。サマーウォーズではそれをうまく「すれ違い」として組み込むことで最低限の破綻に抑え込んでいましたが、おおかみこども以降はおさえようともしなくなってしまったため、暴走する一方です。欠落しているので、ポジティブに描こうがネガティブに描こうがどちらも空っぽで嘘っぽい。説得力がないしリアリティもない。想像上の9歳児や幻想上の17歳児とかを「監督の脳内から」ひねりだすからこんなことになるわけです。余計なお世話だけれど、監督の家庭内でのふるまいのせいで家族や奥さんの親戚とギクシャクしているのではないか、と心配になってきたりします。

 しかも、ビジュアルだって今回は凝っていません。バケモノの街の「渋谷感」はパンフで説明されないとわからない程度の代物で、ここは現実の渋谷の片鱗が残り香のように漂う裏世界にしないと「影響し合う」設定が最後の爆発の揺れだけで終わっちゃう。いろいろと頭でっかちに雑なのです。一朗彦との決戦シチュエーションで「移動する時に一瞬一朗彦に戻る、そこを狙えば」とかの安っぽいテンプレートをはさんじゃったりして、そんなところまでちゃちなオヤクソクをいれてこないといけないほどに展開の盛り上がりに自信がなかったのか、と寂しい気持ちにさせられたり。

 と、いうわけで事前の不安は一つを除いてほぼ全部的中してしまいました。残念… 「サマーウォーズ」から「おおかみこども」の過程でも顕著になってきていた「作品の私小説化」が作品とは異なる価値観で暴走してつきぬけてしまったようです。まだサマーウォーズではベースとなるぼくらのウォーゲームがあったので作品性の柱は保持されていました。その前の時をかける少女はふまえるべき小説がしばりとなってさわやかな青春劇になっていました。たぶん、細田監督は対象から一歩ひかないとだめなのです。



 と、思っていました。

  でも、映画を見てから少し時間がたってみると、どうもそれではうまく説明がつかない感覚にとらわれます。もうひとつの違和感。劇場の売店に並べられていた「細田グッズ」。バケモノのみならず、おおかみこども、サマーウォーズ時かけまでもがグッズ化されて大量に販売されています。さながら、「ジブリキャラのグッズ化」のように。で、気がつきました。たぶん監督はもう、「目的とするところ」が違うのだ、と。よくできた脚本と演出で、声優さんの素晴らしい演技によって確立されるアニメーションの中の世界、というものを、たぶん細田監督はすでに求めてはいないのです。邦画を観に映画館に訪れ、お金をおとす客用に、浅くて考えなくてもいい脚本、デジャビュ感溢れる臭いけれどわかりやすい演出、画像のクオリティはすみずみまでを限界まで高めて誰がみてもすごい、と思えるように、声の演技は考慮せずに観客がテレビで知っている有名どころの俳優でおさえて伝わりやすくする。テレビ局がタイアップした有名タレントの俳優によって宣伝力を高めて売り抜ける、これは、アニメーションではなく、映画でもなく、良くも悪くも今の時代の「邦画」なのだな、と。もちろん、それは「正しい」のです。たぶん、このほうがアニメ好きが満足するような作品を作るよりもはるかに多くの人に届くのだから。(「なにが届くのか」は、別の問題ですが…)
 富野監督が「映画をつくりたい」といい続けながらもそれでも「アニメーション」を作っているのとは対照的に、細田監督はアニメーションのみてくれで商業的な商材としての「邦画」を量産する方向に向かったようです。もちろん「邦画」は「映画」ではないので、ターゲットの方向は限定されるけど、会社の収入とか本人のコンプレックスやトラウマや家族ネタをベースに「わかりやすい」(学芸会のような)展開をつくっておけばあとは日テレが売ってくれる。ある意味ではたしかに「ポスト宮崎」です。それに、ちゃんとした映画づくりよりも「邦画」のほうがお金もたくさんまわります。
 そうやって振り返ってみると、・シナリオ順に、・キャストが全員揃った状態でアフレコをする、なんていう「コダワリ」なんて、声優としての技能の乏しい俳優をなんとか使いこなすための苦肉の策なわけで、そんなことを時かけのころからすでに「細田流」と銘打って実行していた、ということの意味を捉え直さないといけないな、と。
 今回、一番ほくほくしているのは細田監督を子飼いにしてポスト宮崎を手中に収めた角川と日本テレビでしょう。今にして思えばZIP!ではそうとう早いタイミングでちょいちょいとバケモノの子の情報が紹介されていました。今回も日テレアナが2名「声優として」参加しています。そこに、とってつけたような頭でっかちな歌詞のエンディング曲がさらにダメ押しをしてくれる、という完璧さ。おおかみこどもと同様に、一度みればもういいかな、という出来上がり。劇場に何度も通った時かけサマーウォーズの時の興奮はかけらもありません。ふむ、クリエイターとしてはこういうかたちの「成功」もあるのか、と。ただ、今回の売り上げがきちんとおおかみこどもを越えていれば、の話ですけど。

 もうひとつ。クリエイターとして私小説なものづくりをすること自体は良いのです。問題は、その結果物語の力強さが失われて陳腐になっていること、と、たぶんこれを陳腐だと監督は思っていないこと(後ろに日テレがいることを考えると「王様は裸」なのかもしれませんが)。その結果、おおかみこどももバケモノも、・男は身勝手な学歴コンプレックス持ち、・女はやたらと気が強くて超人的な精神力で能天気に男を支える、というステロタイプができてしまった。サマーウォーズの時も「大家族をささえている立場」からみたら、という話があったけれど、ようするに「自分の実感と経験」を強力に原点化するためにそれが極めて一方的で皮相的な代物に成り下がっている、ということが省みられない。瞬間瞬間でわくわくするシーンも感動的なシーンもあるけれど、一本の作品として映画全体を見た時になにも残らない。あの、映画館でスクリーンを前にしてわくわくし、エンドクレジットが流れていく時に感じるカタルシスがない。たぶん、細田監督自身がもう「そういうものをつくろうとしていない」からです。

 会社をたちあげて経営を成立させていかなくてはならないのだし、そういうこともあるだろうな、とは思うけれど、昔の細田演出にわくわくしていた自分を思い出すと寂しさと残念さを禁じ得ません。観客よりもクリエイターのほうが先に大人になってしまった、というのも考えてみればそうそうできる経験ではないから、そういう意味ではそれこそが最後の細田監督からのサプライズだったのかもしれません。

 あと、監督、おおかみこどももそうだったけれど、「脚本と小説」は別、だと思ったほうがいいと思います。今回も、「セリフと地の文」をならべて小説として出版しているけれど、「映画の追体験グッズ」としてはいいけれど一冊の小説作品として見た時にあまりにも拙くて辛いです。とはいえ、角川的にはこれで大正解なのだろうなあ、ともやはり思ってしまうのだけれど(おそらく、ちゃんとした作家つかって小説にするよりもこのほうが数は売れる)。

 さて、そうすると残る疑念はひとつです。おじゃ魔女やデジモンナージャでみせてくれた細田イズムともいうべき世界、あれの「さらに進んだ姿」を見たい旧来の細田ファンは、これから先どうすればいいのか。それは、今回のような「作品づくり」が監督の「純粋につくりたかったもの」、なのか「もろもろの事情によって結果的にたどりついた場所」なのかによって違ってきます。日テレのしばりから離れて、売れる売れないを気にせずにつくったら一体どういうものができるのだろうか、と。

 でも、監督、ごめんなさい、正直にいえば今回の体験のせいで、もう期待するだけの気力が残っていません。すでに、期待するのにも疲れてしまいました。

P.S.設定的にはニンゲン界とバケモノ界のつながりはもっと描けたろうになあ、と思います。向こうで強烈な大げんかが起きた時にこっちで天変地異となって現れるとか、ニンゲン界での戦争がバケモノの街を壊すようなことがあるとか。「神になれる」というのも消化不良だしいろいろとモッタイナイんですよねえ…

P.P.S.NHKのブロフェッショナルの流儀を見たのでいくつか。
 まず、コンテの存在意義が独特なこと。アニメーターに駄目出しする際に「もっとコンテからちゃんと拾って」といってしまえるように、たぶん絵的には完成品としてコンテをきっているのですね。そういうスタイルなのだろうけれど、これは現場は大変そうだ… まさしく富野御大とは大きく違うところですが、たぶん、それは作劇という点で結構重大なポイントのように思います。
 父親と親戚のこと。監督の父親に対するわだかまりは憎しみの皮をかぶった強烈な愛情です。これが、おおかみこどもやバケモノのような「不在によって濃密になる」父親表現につながっているみたい。そして、その感情が監督の中で未だにくすぶったまま決着がついていないので、そこをベースにした表現が中途半端な理想論みたいになるのは仕方がないのでしょう。仕方がないけれど、そのせいでとてもふわふわした画面になっています。
 そして母親について、が問題です。おおかみこどもの時のありえないスーパー設定の「母親像」は父親に対する感傷の裏返しとして母親に展開されたものだったのですね。そうだとすると、監督が最優先でやらなければいけないことはたぶん「母親との率直な対話」です。
 細田作品に「親子のつながり」が結局表現できないのは、そのベースの部分が中途半端なまま、「大人としての解釈」で上書きされ、放置されているからです。バケモノの子のセリフの一つ一つがやけに陳腐なのも、そこの実感がないせいでしょう。このあたり、監督個人の親としての体験が機能していけばもう少し変わるかもしれないな、とは思いますが、どうでうしょうねえ。