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サマーウォーズ

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 なかなか言葉がまとまらなくて散漫なままです。とりあえず、初日より連日五回+α回ほど見た時点での感想など。

 最初に、予告編についてもうすこしどうにかならなかったのか、と。本編見てからならあの予告編はよい出来だと思えるけれど、事前だと曲はわざとらしく夏の山下達郎だし、内容はさっぱりだし「?」な感じ。それ、全然「予告」編じゃないですよね。確かに、この内容だとうまい予告つくるのは難しいのはわかるけれど、絵ができてないとかでもないわけだしもう少しなんとかならなかったのかなあ。
 情報がもれはじめたずいぶん初期の頃からこれはたぶん、「ぼくらのウォーゲーム」のリメイクだと思っていたし、実際に、拡大されてはいるけれどそれは間違いなかったと思う。「ぼくらの」では尺とデジモンという制限があったため、「家族」というキーワードは背景にとけこんでしまっていたけれど、そこを掘り下げて「日本の夏」を表現してみた、という感じ。(実際には、デジモンのキャラクター設定のほうが「家族」の物語をつむぐ場合には向いていたはずなので、そこを補うには「大」家族レベルの背景が必要とされた、かな、と。「ウォーゲーム」の中ではヤマトの家族の話をあれ以上ふくまらせるわけにはいかなかっただろうし)あるいは、「ウォーゲーム」はデジモンものとしての出来が良すぎたため、背景にあった「家族」の物語は軽視されがちであった、ともいえるか。どちらも、「人類の存亡をかけてローカルに戦う一夏の戦争」なんだけれどね。まあ、監督のプライベートの影響も関わって、ということですが。それで「田舎」が島根から上田にかわった、と。 邪道な見方ではあるけれど、これを「デジモンの新作」として捉えても期待は裏切られない。それほどにきっちりと「お約束」は詰め込まれています。佐久間はトイレにいかない光四郎だし(笑)、ジョンとヨーコはそのまんま四聖獣的位置づけですね。

#世界中の人が会話できる、ところからimagineつながりでOZの守り神がジョンとヨーコだというのはわかる。
#でもそうすると、ラブマシーンにはもっと簡単にその同時翻訳システムを少しだけいじって混乱させる、という戦略もあったよなあ、
#とか、ブリューゲルの「バベルの塔」を見ながらぼんやりと考えました。そのほうが悪意という点ではひどいような。

 もちろん、いうまでもなく「8月1日」は特別な日であるわけで、誕生日なんだといえばそのとおり。もっとうがった見方をしてしまうと、これは「8月1日に生まれた」ものの新旧交代の物語、といえるのかも。と、すると細田監督の次作は「まったく新しいデジモン」だったりしないかなあ…と妄想してみたり。

#アバターの中にポンチョモンらしきのがいるなあ。
#というか、ラブマシーン自体、スサノオモンやらケルビモンやらだし

 でも、監督と脚本の熾烈な切磋琢磨(笑)による、緻密な構成と展開、カタルシスをきっちりと編み出す力こそが「映画」という楽しみを生み出すのだ、と、再認識させられました。て、「時かけ」の時も似たようなことを書いた気がする。
 映画の尺をきちんと無駄なく使い尽くす、ということが、作り手としては実はすごく大変なことなのだ、という認識です。くらべちゃいけないけれど、今年の「有名アニメ」であければ「破」なんかはそこをどうしようもなく失敗(いや、そういうところに全く気を遣っていない、というべきだなアレは)した代物でした。よいカットも少しはあるけれど、大半はあってもなくてもいいようなシーンばかり。中だるみの中にたまに良さげなシーンがある、というのをカタルシスと間違えられてもなあ、それは、単に大半が谷だから、たまの平地が高山にみえるだけじゃん、という。四部作にすることが決まっているから、一本の映画としては完成していなくたって平気、という作りを許容するファン(消費者)を大量培養することに成功した、という点では「序・破」は大成功、なのでしょうね。例をあげれば、健二が次第に気持ちを固めてがんばれるようになっていく、というサマーウォーズでの丁寧な展開と、単に逃げまくっていただけのシンジ(パンフレットでの暴露によると、テレビでは演出でそれでもだんだん第三新東京市に戻ってきていたともとれるような表現になっていたのを監督が全否定した、というオマケつきで)がいきなり唐突にがんばっちゃうという不自然きわまりない(でも、テレビ版から見ていた「ファン」にとってはまさしく「見たかったシーン」の一つ)展開の違い、です。要するにサマーウォーズと「破」では作り手が誰に向いているのかがまったく違う、ということなのだろうから、それはそれでいいんでしょうけれど、赤ちゃんあやすがらがら(ぽかぽか?)が欲しいのではなく「映画」を見たいのであれば、サマーウォーズの方が圧倒的に良い選択です。「ヲタをよろこばせて集金」という目的と、「王道直球ど真ん中」。「破」と「サマーウォーズ」のどちらが現実に名声と財産をつむぎだすのか、は興味深いところです。

 もし、映画館にかかるものを映画とする、のであれば、今回わかったことが一つあります。良い映画とはなにか、ではなく、何では「ない」か、ということ。この夏にはっきりしたのは、「良い映画とはキャラデザインではない」という事実です。あたりまえのこと、ですけれどね。

 しかしまさか、大画面で花札の役を見られるとは。しかも、それが世界を救うとは(笑)。任天堂さん、スポンサーにつかなかったのは大失敗でしたねえ。便乗してDSでゲーム化とかすればおもしろかったろうに。万助じいさんのイカをあやつれるゲームとかさ。せっかく、画面に出てくるゲーム機がDSやアドバンスだったというのに、もったいない。

 家の前のバス停が「陣内前」なんていうのはいかにも大旧家って感じです。

 いくら高校野球につながる絵だからって、理香さんのヘルメットの投げ方かっこよすぎ(笑)。

 仲・板倉(真琴・功介)の子供が高校野球で活躍だなんて、そりゃあ、なにをおいてもテレビの前で応援するでしょう、とか(笑)。

 決戦前に「みんなでご飯」のシーン、実は佐久間もOZの向こうで一緒に食事をしていたんですよね。そういえば佐久間のアバター、胴体はどうしたんだろう。あのままバイト先においてきちゃったのだとすれば、ラブマシーンにデータ奪われていたのかもしれないな。

 家族の物語、なんだけれど、キング・カズマはその「家族」のせいで二度もラブマシーンを捕まえ損ねていて、そのせいでラブマシーンはあそこまで成長できた、ということを考えると…結果オーライではあるけれど…そこまで含めて「家族」。おやつは半分になるし喧嘩ばかりだし顔を見ると憎たらしいけれど、ね。

 初日の川崎は全回満席。これにはびっくり。池袋に移動するも四回目の上映であと「2席」しか残っておらずしかもそのうち一つは最前列。まるでどこかのカントクのように、一番前の真ん中で見たりしました。これだけ混んでいるのってひさしぶりだ。
 ちなみにサントラもほうぼう売り切れでずいぶんお店をはしごしてやっと見つけました。ノベライズも書店ではみかけません。五日目の川崎でも、夕方の回は満席、最終回もほぼ満席でした。もしかして、売れてる?

 侘助は、自分の父親の浪費によって陣内家の財産がほとんどなくなってしまったことと、栄に愛されて育ったこととが心の中でせめぎあいすぎて飛び出さざるを得なかったのでしょう。だからこそ、「今でも」花札で遊んでいるのは彼や夏希だけだというのがさびしい。「めしなんかいらねぇよ」「ビールだけはうめぇや」これが、栄以外の「家族」と打ち解けられなかった彼の言葉です。「じじいが生きていた時」以上の財産を手みやげに、栄の誕生日に帰ってくる、それは、侘助にとってはシンプルで絶対な流れだったはず。それは、おばあちゃんをがっかりさせたくない、故に、「フィアンセのふりをバイトで雇う」夏希と、実はやっていることは一緒なのかもしれません。

 「やった、三光できー」「あがっとくか?」「ううん、こいこいよ」
 「おまえ、四光ねらってんな?」「別にー」「カス三文」「えー、こいこいは?」「しません」「そんなあ」「勝ち逃げは俺の信条」
 この流れ、まったくもって最後の夏希対ラブマシーンそのもの、て感じで「繰り返し」と「伏線」を兼ねているわけです。

 「なにか賭けないとつまらないじゃないか」 そして、「そのほうが、おもしろいだろ」、
 「あきらめないことが肝心だよ」 そして 「同じです、あきらめたら、解けません」。

 そして、「まだ、負けてない!!」。

 栄から侘助、栄から健二。そして、夏希へ。アナログな世界で、人から人に伝わるものというなにかを確かに感じさせる流れです。そう考えると、ラブマシーンは侘助の分身でもあったのでしょう。「好奇心」を駆動力としたAI。こいこいをしない、「勝ち逃げが信条」な戦い方。あえて孤独を選んだことによって逆にどん欲になっていく素の欲求。どん欲になっていくことによって、結局、孤独は倍増していくわけですが…
 結局、栄をまんなかにおいて、侘助と夏希のちょっとずれた思いが世の中を混乱させ、収拾していく、というおはなし。考えようによっては迷惑な一族だ(笑)。

 「人生に負けないように」さりげなく、この言葉が一番中心にあるテーマだったのかも、とも思います。そのために、あきらめない、そして、みんなでごはんをたべるのです。人生を戦う相手だと捉えると、戦っている主体は「自分という個人」ではない、「家族」なんだよ、と。このメッセージは、監督がいうように、世界に通用するものなのかもしれません。

 回想のシーン、栄が上田わっしょいの中、侘助をつれて歩いている時の帯、武田の家紋を柄に使っているみたい。これは、栄の気持ちのピンとした張りを示しているように思えます。

 最後にラブマシーンに残された2つのアカウント。一つは健二のだけれど、もうひとつは誰のなんだろう。最初に使っていた鍵をもっていたから初期に奪ったアカウントのうちの一つなのだろうけれど。

 でも、「よろしくお願いします」で始まり、「よろしくお願いしまーす!」で終わる話なんだよね、これ。
 衛星のカメラにむかって吠え続ける老犬ハヤテ。おまえは酢堂の兄か(笑)。
 「了平の甲子園が決まったらみんなで温泉いこう」が、そのまま敷地に温泉でてしまった、というのも(笑)。

 設定が不自然、とか、家族がみんなできすぎ、とかありえないだろう、とかいう何も考えていない物言いがつくことが軽く予想されますね、これ。ご都合主義だとかさ。でも、「何一つ不自然なもののない日常」だけで2時間の「映画」はつくれない。それは、ミュージカル見に行っておいて「歌って踊ってばかりで不自然だ」と文句つけるのと同様。「映画」見ておいて「不自然」というのはピントはずれもはなはだしいわけです。ただ、「ありえないこと」同士がきれいにつながって、見ている時間の間だけ、2時間だけ心地よくだまされ、のせられる、のが「映画」です。その点で、サマーウォーズは十分合格点でしょう。ドイツの少年の初期アバターから世界中の人たちとつながる瞬間を、ウォーゲームの二番煎じだ、といってのけるのは簡単ですが、これ自体は古典的といってもよいシチュエーションですよね。ヲタ言葉でも理解できるような例をあげると「元気玉」だの「逆シャア」だの、ティガ以降の平成ウルトラだの、これは「あなたは独りではないんだ」というメッセージの一つの表現です。その画面で「泣ける」かどうか、は作り手の演出力。とりあえず「元気玉」で泣いた人の数と、「わたしたちの大切な家族をどうか守ってください」で泣いた人の人数、どれくらいちがうでしょうね、ということです。心地よい2時間を大スクリーンの前ですごせる、それが、「サマーウォーズ」の一番大事な特性です。